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なぜ中国文明を拒んだのか? 銅鐸が示す“ヤマトの民の強権を認めない姿勢” [きつねうどん★]
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2023/06/27(火) 08:02:27.33ID:7jnsputE
古代にさかのぼって歴史を俯瞰すれば、立場や文化の違いが鮮明に浮き上がってくる――。

歴史作家の関裕二氏は、ヤマト建国は中国の皇帝のような"強い王"を望まない人々を中心に推し進められたと力説する。この性質は、今なお各国の違いにつながっている可能性が高いという。

大陸や朝鮮半島の文明が次々に流れ込んできた縄文から弥生時代、日本ではどのような動きがあったのだろうか。

※本稿は、関裕二著『日本、中国、朝鮮 古代史の謎を解く』(PHP新書)から一部抜粋・編集したものです

ヤマト建国のヒントは「祭器」にあり
ヤマト建国は不思議なできごとで、富も権力も持たぬヤマトと周辺の人びとが、「文明に抗う」ために、奈良盆地の東南の隅に集結したと考えられるようになった。

「貧者の書生論的なはかない夢」だったはずなのに、一瞬で本当にヤマト建国を成し遂げてしまった事件なのである。これは、想像で述べているのではない。考古学者が物証をかき集めて構築した新説なのだ。

安っぽい空論でも机上論でもないし、飛躍した妄想でもない。考古学の成果を積み重ねた結果「そう考えなければ逆に不自然」だから生まれた仮説である。

弥生時代後期の日本列島でもっとも栄えていたのは北部九州だった。朝鮮半島に近く、壱岐、対馬という渡海するための止まり木があって、朝鮮半島南部の鉄の産地との間を自在に行き来していたのだ。

朝鮮半島最南端の交易の拠点になった金海地域には、今のような平野がなかった(海岸線は奥まっていた)。一帯は鉄の交易によって栄えていたが、大平野を持つ北部九州から穀物が輸入されていた可能性が指摘されている(田中史生『国際交易の古代列島』角川選書)。運搬したのは、対馬の海人だと言う。

「魏志倭人伝」には、対馬には良田がなく、南北に市糴(してき)して(交易で)生きていると記される。朝鮮半島南部の鉄を北部九州にもたらし、穀物と交換していた様子が見てとれる。

また、金海の遺跡から見つかった船舶部材は、3世紀から4世紀の日本産とわかって、他の伽耶地域からも、6世紀初頭の日本産と思われる樟(くすのき)製の船の部材が見つかっている。

穀物や材木が、鉄と交換されていた可能性は高く、また「倭韓交易には両地の経済的なつながりや相互依存状況がよく示されている」(前掲書)という。

鉄器の保有量は北部九州が断トツで、さらに、山陰地方、北陸地方(要するに日本海沿岸部)と、吉備(岡山県と広島県東部)にもたらされていた。

問題は、近畿地方南部(ヤマト周辺)と東側の地域が鉄の過疎地帯だったことだ。ちょうど、銅鐸(どうたく)文化圏に重なる。そして、銅鐸こそ、強い王を拒む祭器だったのである。

カギを握る「銅鐸文化圏」の人びと
弥生時代の最後に銅鐸を祭器に用いた地域は、銅鐸を巨大化させていた。

理由は、威信財をひとりの強い首長(王)に独占させないためで(強い王を望まなかった)、集落のみなで、銅鐸を祭器に用い、勝手に首長が墓に副葬できないようにしたのだ。

北部九州のような、銅剣や鉄剣、鏡を副葬して首長の権威を誇っていた地域とは、異なる発想で、しかも「強い王を求めない地域の人びと」が、3世紀の初頭に、奈良盆地の南東の隅に拠点を作り、それがヤマト建国のきっかけとなっていく。

これが、纏向遺跡(奈良県桜井市から天理市の南端)の誕生である。

忽然と、三輪山山麓の扇状地に、政治と宗教に特化された都市が誕生したのだ。纏向遺跡には外来系の土器が多いことで知られている。

内訳は伊勢・東海49パーセント、山陰・北陸17パーセント、河内10パーセント、吉備7パーセント、関東5パーセント、近江5パーセント、西部瀬戸内3パーセント、播磨3パーセント、紀伊1パーセントで、銅鐸文化圏の2つ、東海と近江を合わせると過半数に達する。
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2023/06/27(火) 08:02:35.28ID:7jnsputE
北部九州の土器がほとんど流入していないことも特徴的なのだ。しかも、最初に集まってきたのは、銅鐸文化圏の人びとだった可能性が高くなってきている。

また、ヤマトを含む銅鐸文化圏の人びとは、縄文時代から継承されてきたネットワークを利用して、交易を行う人びとでもあった。

考古学者の設楽博己は、ヤマト周辺の諸集団は独占的にネットワークを支配していたのではなく、互恵的な社会システムが機能していたと言う。(『考古学による日本歴史9』白石太一郎ほか編/雄山閣出版)。

また考古学者の寺前直人は、ヤマト周辺では青銅器も入手可能だったのに、あえて二上山産サヌカイトの石製短剣を集落の人びとが所持し、強い権力者を排除していた様子が見てとれると言う。

そして銅鐸に関して、前段階の社会秩序でもあった平等志向を維持することを目的に、この地域の人びとは青銅製武器を非実用品に変質させ、銅鈴に伝統的な文様を与えて、大型化をはかったと推定できる(『文明に抗した弥生の人びと』吉川弘文館)。

と述べた上で、近畿地方南部の人びとは、一時的とはいえ、大陸や半島からもたらされた魅力的な文明の導入に抗うことに成功した経験を持つ人びとだったと指摘している。これまでにない発想であり、物証をそのまま歴史に当てはめれば、そう考えざるを得ないのである。

「多神教徒的」な日本人と世界との共存
日本人は多神教徒であり続けると思う。その理由を、1つの仮説が説明してくれているように思う。それが、角田忠信の「日本語人の脳」という仮説だ(『日本語人の脳』言叢社)。

日本人は虫の声や動物の鳴き声、風や水の流れる音などを、世界の人とは違って「言語を司る左脳」で聞き取っているのだが、その原因を探っていくと、幼少時から日本語を語り、母国語にしたからではないか、と言うのである。

これは、実験によっても検証されていて、日本人の伝統的な心情の特徴は、(1)情緒性、(2)自然性、(3)非論理性に求められるとする。

この心情こそ、日本人の多神教的な発想に結びついているのではあるまいか。大量の渡来人も、2世3世は日本語で育ち、日本人的になっていったわけだ。だからこそ、日本人は白黒はっきりとした一神教的な思考に、馴染めないのだろう。

また、日本語の起源はまだよくわかっていないこと、世界から孤立した言語なのだが、すでに縄文時代には原形が出来上がっていたと考えられていて、日本人の3つ子の魂が、日本語と国土の大部分を占める大森林によって守られてきたのではないかと思いいたるのである。

ここに、なぜ日本と中国は、相容れないのか、1つの答えは見出せたのではなかろうか。中国は文明の国、日本は反文明の国なのである。

また、朝鮮半島諸国は、中国や騎馬民族の脅威に晒され続け、事大主義的発想を抱きがちだった上に、日本を中国文明の「下流に住む弟」とみなす。どんなに現状が変わろうとも、これが根底にあり続けるのが朝鮮半島人だ。そのことに気づかないまま、お互いに理解できないでいる。

当然、縄文人は稲作を拒みながら、背に腹はかえられないと、徐々に稲作を受け入れていった。弥生時代後期に戦乱が起き、中国の歴史書に「倭国大乱」と記録されたが、3世紀初頭に纏向に人びとが集まり、奇跡的な形で混乱を収拾してみせたのだ。中国のように、敵を圧倒し、殲滅し、共存を拒むという文化は根付かなかった。

中国は、一神教的で中国的な「正義の皇帝」に支配され、日本は、「なるべく強くならないように工夫した王(天皇)」を推戴したのだ。この差は大きい。

多神教世界の住人である日本人にとって、中国はじつに厄介な存在なのだが、逃げるわけにはいかない。だから、お互いの差を知った上で、どうすれば共存できるのか、模索する必要があるだろう。相容れないからこそ、友になる道を開かなければならない。

https://shuchi.php.co.jp/article/10360
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2023/06/27(火) 08:05:22.91ID:h0Ff48ys
漢字が読めなかった
0004Ψ
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2023/06/27(火) 08:54:01.17ID:qrVBY5j6
漢字思いっきりつかうがな
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2023/06/27(火) 10:38:50.97ID:9vdbfrpy
ヤマトタケルも知らんのか
大和朝廷は十分強権的だ
何いってんだ、この学者モドキは
0006Ψ
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2023/06/27(火) 10:50:34.62ID:af/2nitv
>>5
外征と朝廷内部でのリーダーが
強権の違い。
合議制で行うかリーダーが一人で
決めるか。
0007Ψ
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2023/06/27(火) 10:53:49.49ID:jLHjJdDR
面白そうだからアニメ化しろ
0008Ψ
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2023/06/27(火) 11:06:14.04ID:aRFLSu2e
大陸の諸部族も、昔は多神教を信仰していた筈だよね。

屈原の霊とか、菅原道真と瓜二つだし。
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2023/06/27(火) 14:32:39.63ID:UvFmik3f
関裕二で検索したら特に小説とかでてこないんだけど
適当な自説をぶち上げる本ばっかりだった

作家っていっても物語を書くわけじゃなくて創作歴史をあれこれいうのも居るんだな
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