神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿とは何なのか。

本記事では、古代の軍事氏族・大伴氏の有名な言立てについて、くわしくみていく。

※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』から抜粋・編集したものです。

軍事氏族・大伴氏の誓い
靖国神社の社格は最高格ではなかった。しかし、別の見方をすれば、靖国神社に祀られたものは、過去の英雄である楠木正成や豊臣秀吉に並ぶ存在になったともいえる。中世までの身分制社会では、まったく考えられないことだった。

なかでもよく引き合いに出されたのが、大伴氏だった。大伴氏は、天孫降臨の際にニニギに随伴したアメノオシヒ(天忍日命)や、神武東征に随伴したミチノオミ(道臣命)を祖先にもつとされる(系譜では、アメノオシヒ―ミチノオミ―大伴氏)。その伝承からわかるように、古代の軍事氏族だった。

記憶のいいひとは、『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』第1章で取り上げた軍人勅諭の一節、「昔神武天皇躬づから大伴物部の兵どもを率ゐ」を思い出すかもしれない。つまり大伴氏は古代の忠臣として持ち上げられていたのである。

この大伴氏の有名な言立て(誓いのことば)に、つぎのものがあった。

(1)海行かば、みづく屍(かばね)、山行かば、草むす屍、王(おおきみ)のへにこそ死なめ、のどには死なじ

(2)海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ

海でも山でも天皇のお傍で倒れる覚悟だ。たとえ、打ち捨てられた屍となっても構わない──。(1)は聖武天皇の宣命、(2)は大伴家持の長歌(『万葉集』収載)に出てくるものだが、いずれも意味は如上のとおりだ。

東京招魂社で1869(明治2)年6月に行われた最初の招魂祭では、祭主の小松宮彰仁親王が奏上した祝詞に、この言立ての一節が読み込まれた。

天皇(すめら)の大御詔(おおみこと)に因りて、軍務知官事宮嘉彰白さく。去年(こぞ)の伏見の役より始て、今年筥館の役に至まで、国々所々の戦場に立て、海行者水付屍(みづくかばね)、山行者草生屍(くさむすかばね)、額には矢は立とも、背には矢は不立(たてず)と言立て、身も棚不知(しらず)仕奉し将士の中に、命過ぬるも多(さわ)なりと所聞食て、其人等の健く雄しく丹心持て仕奉しに依てこそ、如此速に賊等を服(まつろ)へ果て、世も平けく治りぬれ。
天皇のために死のうという大伴氏の覚悟は、大伴氏に限らず、天皇のために倒れた将士すべてに当てはまる。そんな意図のもとで、大伴氏の言立ては祭文にしきりに引用された。

それだけではない。この言立ては「海ゆかば」というタイトルで2度、軍歌にもなった。とくに有名なのが、1937(昭和12)年、日中戦争の初頭に日本放送協会の依頼で東京音楽学校講師の信時潔が作曲したものだった。

当時の日本は中国相手に連戦連勝を重ねており、この軍歌もけっして暗いものではなかった。ただその荘重なメロディーにより、大東亜戦争下には玉砕などの苦戦を伝える大本営発表のBGMとなった。そのため、戦後は鎮魂歌としてうたわれている。

現在でも終戦記念日の靖国神社に行くと、参拝者があちこちでうたっているのを耳にする。2005(平成17)年6月、日本の委任統治領だったサイパンを訪問した平成の天皇が地元の高齢者からこの「海ゆかば」をうたわれて、表情をこわばらせたことがあった。歌詞の内容を考えれば当然だが、それぐらい広く知られた軍歌だった。

こうして大伴氏の言立ては祭文や軍歌としてよみがえり、靖国神社の祭神は、ニニギを先導した神を祖先とする大伴氏のような存在として位置づけられたのだった。

https://gendai.media/articles/-/111284