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2023/09/04(月) 15:14:20.16ID:pbd/Va48春日村史付録の山岳・谷概要図に「大谷刑部少輔吉継の墓」と記された場所の辺りに立つ石碑=揖斐郡揖斐川町春日川合
岐阜県揖斐郡揖斐川町、春日地域最南部の山中に、刻印のない石碑がある。春日村史付録の山岳・谷概要図に「大谷刑部少輔吉継の墓」と記された場所とおおよそ重なる。旧春日村には、1600年の関ケ原の戦いで敗れた西軍の有力武将・大谷吉継の首がこの地に埋められたとの伝承がある。
揖斐川町春日川合から不破郡関ケ原町へ抜ける峠道。峠の頂上付近の奥まった場所に碑はあった。表にも裏にも文字は刻まれていないが、土で盛られ人工的に立っているようにも見える。村史には、昭和40年代、「古屋・大高スカイライン」の道路整備工事中に大谷吉継の供養塔が掘り出されたとの記述がある。
付近には吉継が患っていた病気を意味する「カッタイ」と名付けられた谷もある。最寄りの古屋集落の住民男性(75)は「その辺りに大谷吉継の首が埋められたことから、カッタイ谷と呼ばれるようになったという言い伝えがある」と教えてくれた。
吉継は西軍の主力で、石田三成への友情を貫いて参戦したとして人気がある。関ケ原の戦い当日は松尾山近くに布陣。東軍の藤堂高虎軍らと交戦していたが、小早川秀秋の裏切りによって自軍は総崩れとなり、敗走途中で家臣の湯浅五助の介錯(かいしゃく)で切腹。その首は、五助の手により山の中に埋め隠された。
吉継の墓は、関ケ原町の吉継陣跡から300メートルほど分け入った山中にあり、「関ケ原古戦場」の国史跡の一つとして整備されている。説明板によると、五助は藤堂軍に捕らえられたが、自分の首を差し出す代わりに、主君の首の在りかを秘するよう頼んだ。藤堂家は約束を守り、江戸期に入ってからこの供養塔を建てたという。ほかに、滋賀県米原市にも吉継の首塚があり、大谷軍が領地の敦賀を目指して敗走する途中に、首をこの地に埋めたと伝わる。
一方、旧春日村には、吉継の家臣は山中をさまよい春日へ出て首を埋めたという伝承が残る。村史は、その場所を「粕川谷の古屋」としている。古屋の住民男性は、そのような言い伝えがあった中で、道路工事で碑のようなものが出てきたので「当時、大谷さんの首塚やないかという話になった。信ぴょう性は分からない」と語る。春日は、笹尾山など西軍方のエリアから、尾根を越えた“裏側”に当たることから「関ケ原から伊吹山中に逃れて春日にたどり着くことはあり得る」と付け加えた。
「旧春日村には、ほかにも西軍武将にまつわる民話がある」と揖斐川歴史民俗資料館の小谷和彦館長は解説する。小西神社(揖斐川町春日中山)は、小西行長をまつった神社。行長はこの地へ逃げて住民にかくまわれたが、老婆の告げ口で捕らえられた。行長は強い恨みを口にして連行され、斬首。その後集落では大火が続き、行長のたたりと恐れた住民らが墓を作り、社を建てたと伝わる。
また、宇喜多秀家は、春日の谷を敗走する中で地元豪族に助けられ、「白樫の矢野家」でしばらくかくまわれたという。一帯に西軍の主力武将たちの敗走伝説が残ることも、吉継を巡る歴史ロマンを膨らませる。
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/282698