『ドラえもん』「ビョードーばくだん」で描かれた、のび太の愚痴
国民的マンガ『ドラえもん』に「ビョードーばくだん」というエピソードがある。物語は、勉強も野球もうまくいかないのび太がドラえもんに次のように愚痴ることから始まる。

やる気しないよ。勉強したってどうせわからないし、野球はへたくそで、ジャイアンになぐられるし、ぼくがなにかすると、きっとずっこけるんだ。不公平なんだよ。生まれつき頭がよかったり悪かったり、力が強かったり弱かったり、こんなのひどいと思わないか!?                   (藤子・F・不二雄『ドラえもん 26』小学館、1982年、65頁)

そこでドラえもんがしぶしぶ取り出したひみつ道具が「ビョードーばくだん」である。これは、標準にしたい人(ここではのび太である)の爪の垢を煎じた汁を爆弾につめ、打ち上げて爆発させる。その灰をかぶった人は標準の人物と同じになるという道具である。

さっそくのび太がこの爆弾を打ち上げ、街中のみんなが灰をかぶった結果、学校の先生を含む全員が遅刻したり、宿題を忘れるようになってしまう。みんな算数の問題も解けなくなり、かけっこも苦手になる。「みんな同じ速さってのは、公平でいいねえ」(69頁)。のび太がそう思ったのも束の間、全員が怠け者になってしまったおかげで社会全体が機能不全に陥ってしまう、といった内容である。

このエピソードにおいて、「ビョードーばくだん」が実現するのは、文字通り一種の平等の状態である。それは人々の状態をのび太のところまで引き下げることで実現される。ここでのび太を突き動かしているのは、劣等感や嫉妬心であろう。できる人とできない人がいる世の中は不公平でおかしい。そうした正義への訴えがここには確かにある。

こうした無邪気な発想は漫画だけのものだろうか。もしかすると不平等の是正を求める正義の要求には、のび太が感じたのと同じ嫉妬心が多かれ少なかれ含まれていないだろうか。本章で扱いたいのは、正義と嫉妬のいくぶん不穏な関係である。

正義の仮面をつけた嫉妬心
嫉妬はきわめて恥ずべき感情であることから、他人に知られたくないし、さらには自分でそれを認めることさえ苦痛である。したがって、嫉妬はしばしば自らを偽装する。嫉妬はジェラシーや義憤などに身分を偽り、ときに無害を装ってその願望を密かに満たす。だからこそ、この感情は主流の社会科学ではとても扱いづらい。

こうした偽装のなかでも最もタチの悪いのが、嫉妬が正義の要求として現れるときである。人々が正義感から世直しを求めて立ち上がるとき、あるいは社会の不公正や不平等の是正を訴えるとき、そのほとんどは純粋な動機、つまりは正義感や道義心からのものであろうと思う。

他方で、そうした正義の訴えのなかに、富者や自分の気に入らない相手への私情が紛れることがあるのも事実である。成功者への嫉妬感情が経済格差への批判として現れる、そうしたことが絶対にないと言い切れるだろうか。そんな光景はすでにSNSではありふれたものではないだろうか。

卑近な例を挙げるとすると、筆者はかつて喫煙者であった。あるときを境にやめることにしたのだが、それ以来、他人の煙草のにおいにとても敏感になった。かつては自分も深々と吸い込んでいたそれが空中をふわりと漂ってきて鼻腔をくすぐると、とても強い不快感を抱くようになったのだ。そういうとき、決まって私は「ここは喫煙所ではないのに……」であるとか、「近くに小さいお子さんもいるのに……」などと、常識的な正義感にもとづいて憤っているつもりであった。