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“玉砕”の島 前編・テニアン島/後編・サイパン島
0001名無しさん
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2023/08/11(金) 07:34:59.30ID:u0ReD2MY
“玉砕”の島 語られなかった真実 前編・テニアン島/後編・サイパン島
初回放送日: 2023年8月9日

後編が大事ですオンデマンドで見てください
後編では
アメリカ軍医師が死んだ日本軍航空兵士を横にあった槍で突き刺し内臓を全部引き出し木にぶら下げていたという証言も
そのとき日本軍人は民間人に成りすまし逃亡、、、、、、?
0002名無しさん
垢版 |
2023/08/12(土) 13:14:16.14ID:AJlz79Y+
日本軍がサイパン島民を茹でて食べた?ニューギニアの様に?
0003名無しさん
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2023/08/13(日) 06:34:23.14ID:PM4AgSga
戦え捕虜になるぐらいなら自決をと言う日本軍人は自分だけが生き残り人生を全うした
0004名無しさん
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2023/08/13(日) 06:41:33.72ID:PM4AgSga
【歴史】「土民は銃殺、女は逃がす」 日中戦争、旧日本軍には「略奪マニュアル」があった…“強盗”指南も ★6 [樽悶★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1691850767/l50
京都市出身の陸軍歩兵・小林太郎氏(故人)は、37年から約2年間にわたり上海戦、南京攻略戦、徐州作戦などに従軍。
略奪や殺害を繰り返した日常を淡々と日記に残した。「行軍中いもを畠(畑)から掘つて来て、焼いも」(37年9月25日)、
「行く行くの部落(集落)でニハトリ(ニワトリ)を徴発」(38年3月28日)といった行動を記している。

さらに、敵のトーチカ(コンクリート製の防御陣地)を攻撃した際、そこで炊事をしていた民間人について「土民は銃殺。女は逃がす」(37年11月20日)などと記載。
敗残兵を見つけたので殺した、という記述も多い。
日本軍の肝心な事、「女を見たら合歓」はもちろん削除されている。
0005名無しさん
垢版 |
2023/08/15(火) 09:55:37.77ID:HxVVZbNh
>>4
シナ戦線の日本軍とシナ軍はどういう状況だったか、NHK英会話の講師として有名な
J・B・ハリス(父が米国人記者で混血)が帝国陸軍兵士として河南省を中心とした
北支の戦線を戦い抜いた『ぼくは日本兵だった(旺文社1986年刊)』という著作が
あるから読んだらいい。アマゾンのもあるが、大概の図書館にあるから借りて、
そのキモいカルトと現実の日中戦争を比較したらいい。

国府軍/八路軍との死闘(敵は全てゲリラ[便衣兵]だから神出鬼没で正面衝突は皆無。
火器の戦いより情報戦が主体になる)も興味深いが、さらに興味深いのが内陸奥深い
シナ戦線では、地元シナ住民と親しくなり情報提供/食料調達などの住民協力を得ないと、
日本軍は絶対に生存できない事(住民は日本軍/国府軍/八路軍を天秤にかけてる)や、
兵士が、『帝国軍人として相応しくない行為』 をした時の上官の凄まじい鉄拳制裁など
が詳細に書かれている。兵の一人一人が日本軍の評判を良くして親日派のシナ住民を
増やさなければならず、『鉄の軍規』に縛られた日本兵が勝手に一般市民へ掠奪や
レイプ・殺人などできる訳がない事がよく分かる。

◇ハリス先生は日本兵だった
newsweekjapan.jp/newsroom/2011/07/post-228.php
◇ J・B・ハリス Wiki
ja.wikipedia.org/wiki/J・B・ハリス
◇ぼくは日本兵だった – 1986/7(旺文社刊)
ci.nii.ac.jp/ncid/BN05234489
0006名無しさん
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2023/08/15(火) 12:43:20.01ID:4dceAZlK
すり替え無し作り話では無い「はだしのゲン」が見やすく面白い


フィリピンにおける性暴力関係証拠資料が示す性暴力の実態

虐待の手段として行われた性暴力とは、強姦・強姦未遂に加えて、虐待を目的として、あるいは死に至らしめるまでの虐待として行なわれた様々な性暴力に関する資料である。例えば乳房や陰部を銃剣で切除する、裸で一晩中立たせる、胎児を腹部から出す
これらの資料は、強姦があたかも残虐行為の「一般的な手段」として用いられていたこと、また強姦が意図的に行われていたことを示しており、強姦、乳房・陰部・子宮への攻撃など、女性の「性」が攻撃のあからさまな対象となっていたことがわかる。

↑資料、戦争裁判と性暴力・資料編集委員会 「【資料紹介】東京裁判と性暴力 ー 中国とフィリピンを例に」 季刊戦争責任研究 第61号(2008年秋季号)P.32


中華民国政府によって行われた戦犯裁判に証拠として提出された、南京大虐殺時の残虐行為に関する目撃者証言。
また証人欧陽都麟は、「日本軍の谷寿夫部隊は南京攻略で中華門から真っさきに入城し、まず虐殺をおこなった。この二日間(十二・十三の両日)で中華門内外は死体が散乱し、惨たらしくて目をそむけざるをえないほどであった。
ある妊婦は銃剣で腹部を刺され、腹から胎児がとびだして死んでいた。ある女性は銃剣で陰部を刺され、剣の先が臀部にまで突きぬけて死んでいた。また八〇歳の老婦人で強姦されて殺きれた人もいた」と供述している。

↑資料、南京事件調査研究会編 『南京事件資料集(2) 中国関係資料編』 青木書店 1992年 P.304
0007名無しさん
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2023/08/15(火) 12:55:24.70ID:4dceAZlK
中国の少数民族黎族のある少女も、日本軍部隊に拉致され、日々強姦される生活の中で、このような場面を目撃させられている。

呉亜洞さん(仮名)は一九二五年七月生れ、保亭県A村に生れ、今もそこに暮す。

(略)

 一六歳のとき、日本軍に徴用されて「戦地後勤服務隊」なるものに入れられ、村の近くの駐屯地へ連れて行かれた。彼女と共に村から二人の娘が連行された。(略)

 駐屯地では、まず黎族の村から収奪してきた米の選別をさせられた。よい米とくず米を分ける作業だった。六、七日たって、日本兵が山へ烏を撃ちに行くのに同行させられた。この時、山のなかで、兵士四人に押さえられて隊長に強姦された。服を脱がそうとしたので、泣き叫ぶと、日本兵は彼女の顔を殴った。さらに銃床で打った。殺されると思って抵抗を止めると、日本兵は服を剥ぎ取って強姦した。下半身は血だらけになった。殴られた左耳はその後、ほとんど聞こえなくなった。

 それから、昼間は水運び、洗濯をさせられ、夜は日本兵に強姦される日々が続いた。一晩に五人もの兵士が襲ってきたこともある。生理中でも強姦された。日中、山へ連れていかれ、山の中で強姦されることも繰り返された。そんな時、嫌がったために、谷へ突き落とされ、左腰が岩に当り、歩けなくなった。左骨盤が骨折、今は腰が大きく左へ曲っている。

(略)

 近くの駐屯地だけでなく、他の駐屯地へ連れていかれて、強姦されたこともあった。大村ダイソンの軍慰安所には七日間監禁され、ザラーンでは四日間、兵舎に監禁され、そこで強姦された。大村の慰安所に送られたとき、ひとりの少女の虐殺を村人と一緒に見させられた。李亜細という少女が逃げようとして、捕まった。川辺に彼女を連れて行き、銃剣で腹を切り裂き、妊娠していた少女の腹の胎児を突き刺した。


↑資料、 野田正彰 『虜囚の記憶』 みすず書房 2009年 P.219-221
0008名無しさん
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2023/08/15(火) 12:57:58.32ID:4dceAZlK
蛮行を実行した本人(日本兵)による告白。

昭和十六年九月ごろから第六師団は、中国大陸最後の砦といわれる長沙へ向けて進撃を開始し
た。

(略)

 部隊の最前線にいるため食糧が底をつくときも多くあった。そのような時、進撃している途中、民家に五、六名組になって徴発に出かけていった。例外なくほとんどの現地人は逃げてしまい、無人地帯だが、中には逃げ遅れた子供や女が残って隠れていることもあった。若い女性はかならずといっていいほど、強姦をされて殺された。

(略)

 その日は敵との小ぜり合いも少なく、比較的平坦な道の行軍であった。

 谷間にある小さな平地に十四、五軒ほどの民家があり、その中を進んでいった。正午ごろであったろうか、私の脳裏に焼きついて離れない「狂気」としかいいようのない事件はここで起こった。というより自分の手で起こしたのだ。

 私たちはいつものように五、六名で徴発に出かけた。住民はみな逃げて、いないようであった。

(略)

 私たちは部落の中ほどにある家に入った。私と他の二人で入口に立って見張りをし、残りの三人が用心深く中に入っていった。しばらくすると奥から、「おい! ここにどん腹の女がいたぞ!」という声がしたので、中に入っていった。

 どんな顔をしていたか忘れたが、三十二、三歳ぐらいの女性で、見ると腹が大きく、そのため逃げ遅れたのであろう。うす暗い部屋の中でも、片隅にうずくまっている女性が震えているのがわかる。

 最初に見つけた友が、怯えている女性を引きずり出し、震えながら、それでも必死に抵抗する女性を強引に寝台にねじ伏せた。そして、面白いものを発見したかのように、「ひとつ女の腹の中にどんな具合いに赤ん坊が入っているか見てみようじゃないか」といった。「かわいそうだからやめろ」というと、友は激しい口調で、「俺たちは今夜死ぬか明日死ぬかわからんのに、情をかけてどうするか!」といった。

 もともと、私を含め他の者も、面白半分の気持ちが強く、結局、面白いからやってみようということになった。

 三人で、必死に抵抗する女をベッドに抑えつけた。二人で手を、もう一人が足を抑えつけた。私は手を抑えていた。

 臨月になっていると思われるその大きな腹の上部に包丁をあてた。そして、上から下へ一気に断ち割った。

 切りさくような女性の絶叫、はじける肉、瞬間、鮮血がベッドいっぱいにふき出し、ベッドが真っ赤な血の海となった。

 あまりにもむごい生命誕生の瞬間であった。そして、短かすぎる一生であった。もちろん、いつのまにかその女性は気を失っていた。ただいつ発したかわからないが、大きな何ともいえない悲鳴が、いつまでも耳に残っていた。

 面白半分でやったものの、かなりのショックをうけたのか皆、何もいわなかった。そのまま布をかぶせ、逃げ出すようにしてその家を去った。そこでの光景、胎児の姿は今なお、まぶたに焼きついて離れない。その後、この事件に関しては自分たちだけの秘密として、お互いに、しゃべることもなかった。今ごろこうして思い出すと、身が震え胸がしめつけられる。ほんとうに何ということをしたのだろう……。


↑資料、『揚子江が哭いている ー 熊本第六師団大陸出兵の記録』 第三文明社 1979年 P.173-175
0009名無しさん
垢版 |
2023/08/15(火) 13:41:00.05ID:HxVVZbNh
>>6-8
1937年8月13日シナ軍による上海租界への軍事侵略以後、日欧米の上海守備隊は苦戦続きで
14日からのシナ軍航空隊による上海爆撃で、租界の日米欧一般市民に多くの死者が出た。

だが、11月5日帝国陸軍第10軍の杭州湾上陸で、上海は激戦(第二次上海戦)の末に陥落し、
さらに無錫・常州・武漢、そして首都南京を12月13日に陥落させた。僅か38日の快進撃だ。

破竹の勢いで勝利していた日本軍が、南京戦の後ぐらいから、急に苦戦を強いられて、
膠着状態になってしまった最大の原因が、シナ軍は後退する際に街(城市)で盛大に掠奪・
殺人・強盗・強姦を繰り返し、市民を【漢奸狩り】の名で殺しまくり、その首を残忍に
吊るして、盗んだ服に着替えて「便意兵」に早変わりして、ゲリラになってシナ市民に
同化して(便衣兵になる)、日本軍とは全く正面から戦わなくなったから。

南京でも、南京城に追い込まれたシナ軍が市民を卑劣にも大量殺戮して、狩った市民の首を
道端に吊るし、南京市民に「日本軍を受け入れやがったらこうなるぞ」と恫喝した。だから
南京大虐殺と言えば生首を吊るした残虐な写真が出て来る。

言うまでもなく日本軍は日清戦争から、そんなバカげた習慣は皆無。伝統的に日本人は
死体に対して恐れや穢れがあるから、そんな扱いをしない事は日本人なら誰でも分かる。
卑怯にも無抵抗の市民を狩って、見せしめに首を吊るすのは野蛮な鬼畜シナ軍

シナ軍による凶悪な南京市民への大虐殺の悪行を、ウソつき共産シナは卑怯にも歴史捏造
やって、日本軍に責任転嫁しているだけ、、おおおぞましい(オェー

戦争が終わって、日本軍が引き上げる時には、南京市民が日本軍に「行かないでくれ、
あいつら(シナ軍)が戻ってきたら我々は皆殺しにされる。日本軍が帰ると街の治安は
無茶苦茶になる」と、日本軍に「行かないで」と泣いて縋った。しかし日本軍は敗者の
身であり、どうする事も出来ず、後ろ髪をひかれつつ引き上げるしかなかった。

軍規が最後まで保たれたシナ戦線で、「陛下の兵」たる日本兵が軍服を脱いで便意兵に
なったら、軍法会議で間違いなく死刑。シナ軍が「便意兵化」したから、日本軍もそうに
違いないと思うのはカルト共産主義者に多い症状で、心理学の【ミラー効果】だな(嘲笑
自分達が残虐極まりなく市民を殺しまくるから、他の国もそうに違いないと思い込む(オェー
共産シナや日本共産党は得意のウソで、シナ軍のやった悪行を日本軍のせいにしているだけ

・第十六師団史より

■旅団長草場辰巳少将
 「第十六師団が天津から子牙河沿いに西南進した作戦末期のことである。児玉支隊が
 10月13日未明、隆平県城の城壁上に取りつき夜が明けてみると、城内は敗残兵による
 掠奪で阿鼻叫喚の街と化していた。日本軍は、ただ呆ッ気にとられて、しばし茫然と
 して、この地獄図を城壁から眺めていたのである。隆平県城内に雪崩れ込んだ敗残兵は、
 住民から衣・食を奪って便衣化し、明け方になって逃げ出す算段であったのだろう。
 城壁がすでに日本軍に占領されたのも知らず、掠奪の大狂乱を演じていたのである」

■支那軍による掠奪(歩兵第十九旅団司令部通信班長、犬飼総一郎氏談)
 「南京に向かう追撃作戦で、京都の第十六師団は江南大運河に沿い進撃したが、その
 追撃隊となった歩兵第十九旅団(歩兵第九聯隊第三大隊、歩兵第二十聯隊を基幹とする)
 は11月25日無錫を突破し、29日には常州に進出した。無錫も常州も掠奪の跡歴然たる
 ものがあり、私はこの時はじめて、支那軍による掠奪の凄まじさを見たのである」
0010名無しさん
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2023/09/04(月) 08:09:16.15ID:tvbCUrRq
サイパン島では沖縄人に助けられたくせに
お礼も出来ないで恩を仇で返している
0011名無しさん
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2023/09/24(日) 05:21:04.96ID:XquEjio0
後編ではアメリカ軍の医師がもう亡くなっている日本人にそばにあった槍で突き刺して
内臓を出してぶら下げた。と証言

アジア各地でも多い案件だな
夜中に家に入り込まれて寝ていた赤ん坊を蹴られて銃剣で突き刺した日本人多かったらしいからな
0012名無しさん
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2023/10/06(金) 01:59:22.37ID:hGLJy99d
どないやねん、それはどうかしてるわ
0013名無しさん
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2023/10/17(火) 15:05:55.78ID:PliNnwsP
僕の前に道はない僕の後に道が出来る
0014名無しさん
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2023/10/20(金) 18:04:23.31ID:8MHHE7s6
アメリカ人を食べて「旨いおかわり」と叫んだ日本人の小笠原事件は?
0015名無しさん
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2023/10/20(金) 18:04:26.88ID:8MHHE7s6
アメリカ人を食べて「旨いおかわり」と叫んだ日本人の小笠原事件は?
0016名無しさん
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2023/10/30(月) 10:29:41.23ID:+IeFlJpa
総司令の山本五六が殺された
この時点でもう作戦も糞もなかったのだろうな
ライフルの弾も撃ち尽くして食料もない、手元にあるのは自害用な手榴弾のみ
ロシアに投降して捕虜となったドイツ人200000人のうち生きて帰れたのは300人
生きて帰ったと言っても五体満足とは言ってない
つまり投降=活きて帰れる保証はない

そりゃ普通、玉砕覚悟で突っ込むだろうって話

アメリカ、スパイを送り込んで山本五六を殺したのが裏目に出たな
0017名無しさん
垢版 |
2024/03/18(月) 23:33:43.76ID:MTVpPF/d
日本人軍の言葉 ニューギニア編
「豚」にもいろいろ呼び名がついていた。ごった煮とも煮込みともいって食べた。



どれが米兵で豪州兵、現地人
どれだと思う?
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