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毎日新聞 2021/12/19 11:30(最終更新 12/19 11:30) 1329文字




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田中正造も気に入っていたという石をなでる坂原辰男さん=栃木県佐野市小中町で、太田穣撮影

 足尾銅山鉱毒事件の被害者救済に半生をかけた田中正造(1841〜1913年)を学長と仰ぎ、正造の思想と行動を今に生かそうと講座やフィールドワークなどの活動を続けてきた佐野市の「田中正造大学」が閉校を決めた。1986年の開校以来、事務局長を務める同市小中町、坂原辰男さん(69)に35年の歩みや意義について聞いた。【太田穣】

 ――閉校発表からひと月余り。落ち着きましたか。

 ◆節目の事業として35周年の記念誌を発行します。活動記録の年表づくりや資料整理に追われています。師走は例年、今に通ずる正造の言葉を載せた「正造カレンダー」の発送で忙しいのですが、今年はそれがない。閉校を実感し、さびしさを感じます。



 ――事務局が課題に十分対応できなくなったことを閉校理由に挙げました。

 ◆大学のあり方や運営、対外的な発信を巡って、メンバー間の考え方の違いが大きくなっていました。今回の閉校発表についても総意ではなく、批判もあります。正造が学長ですが、学長の代わりはおらず、事務局長ではまとめ役になれませんでした。事務局体制の弱さは感じていましたが、人を増やす努力ができなかった。反省は多々あります。

 ――35年の実績は評価してもよいのでは。

 ◆数回の自主講座のつもりで始め、こんなに長く続き、これほどの広がりになるとは思いませんでした。正造や鉱毒事件の研究団体としては「渡良瀬川研究会」があり、その補完役や他の関連団体との連携を意識してきました。講座やシンポジウム、旧谷中村廃村80年や正造生誕150年などの節目のイベントを通じ、ある程度の役割を果たせたという自負はあります。



 2013年の没後100年行事には深く関わり、正造の本葬をイメージした大行進には800人が参加しました。正造の思想の広がりを感じました。

 発足当初には県道拡幅に伴う正造の生家の改築移転問題がありました。保存運動を展開しましたが守れず、移転後の生家を学び舎(や)に使う気持ちにはなれませんでした。積み残しの課題も多い。一仕事を終えたという感慨より、心残りが大きい。



 ――閉校後はどのような活動を。

 ◆私の4代前の坂原久平が旧小中村の庄屋で、正造の協力者でした。家には正造の手紙や地図など正造ゆかりの資料などがあります。この文書を整理し、旧谷中村や足尾を案内するガイドを続けるつもりです。地球規模になっている環境問題への向き合い方など、正造の思想と行動から学ぶべきものは今も大きい。大学に関わったひとりひとりがそれぞれのやり方で正造の思いをつないでほしいと思います。

聞いて一言
 若き日の坂原さんが、国や企業お抱えの学者を厳しく批判した環境学者、故宇井純さんの自主講座を受講したのが正造大学のきっかけという。思いを共有する仲間が支え合い、35年も続いた。属人的な組織の新陳代謝を課題に挙げていたが、やはり代わりはいなかったのだろう。長い間、お疲れさまでした。


■人物略歴
 坂原辰男(さかはら・たつお)さん

 1952年、佐野市小中町生まれ。佐野高、法政大卒。福祉施設職員、印刷会社員を経て、群馬県太田市役所で鉱毒史の編さんに従事。86年に自主講座「田中正造大学」を開き、現在まで事務局長を務める。