日韓関係を打開できるのは政治の力だけだ
田中均・日本総合研究所国際戦略研究所理事長

 日韓関係は「国交正常化後最悪」と言われる。なぜそうなのかを客観的に分析し、原因を認識することなくして関係改善に至ることはない。

 徴用工問題とか慰安婦問題、あるいは輸出管理厳格化といった個々の問題に目が行きがちだが、個々の問題の解決だけでは一時的に小康状態をもたらすことはできても、すぐに関係が悪化するのは目に見えている。

 私は1987年に外務省の担当課長(北東アジア課長)になり、2005年に退官するまで、政治・安全保障・経済のあらゆる面で直接、間接に朝鮮半島問題に携わってきた。退官後も今日に至るまで、日韓両国の有識者による「日韓フォーラム」のメンバーであり、計35年の長きにわたり韓国との関係を考えてきた。

 日韓関係がここまで悪化したのは、歴史認識、国民意識、政治姿勢の相違という三つの要因があるからだ。これらに正面から向き合い、中長期的な国益を考えて乗り越えない限り、いつまでたっても堂々巡りとなるのだろう。

 正常化のプロセスから今日に至るまで、このような困難を乗り越えるのに大きな役割を果たした政治家がいた。1965年の日韓基本条約を実質的にまとめた大平正芳首相(当時外相)と金鍾泌(キム・ジョンピル)首相(当時中央情報部長)、そして98年日韓共同宣言を締結した小渕恵三首相(当時)と金大中(キム・デジュン)大統領(当時)だ。

 これらの政治家は日本と韓国の未来を見、未来の利益のために局面を変えようとした。

 これまでもそうであったが、日韓関係は政治家にしか変えられない。大平首相と同じ宏池会の岸田文雄首相が本年3月の韓国大統領選挙で選ばれる新大統領とともに、日韓関係を阻害する三つの要因がもたらす困難を乗り越える力を発揮することが期待されている。

歴史認識が違うことを理解しよう
 韓国は戦前の歴史を見、日本は戦後の歴史を見る。韓国が戦後の歴史、日本が戦前の歴史を見ることに、ちゅうちょしてはならない。

 豊臣秀吉は2度にわたり朝鮮出兵を行った。その当時から日韓併合に至るまで日本の野望は朝鮮半島を支配下におさめ、中国に進出することだった。日清戦争も朝鮮半島の権益をとるための戦争であり、日露戦争は朝鮮半島での日本の影響力拡大に抗するロシアとの戦争だった。

 いろいろ説はあるが、日清戦争直後にロシアと通じた李王朝高宗の王妃である閔妃(ミンピ)暗殺事件は日本側により企図されたものだったという。

 また、ハルビン駅で伊藤博文(内閣総理大臣を4次にわたり務め、後、初代朝鮮総督を務めた)が暗殺され(暗殺犯・安重根は韓国では英雄とたたえられている)、その後日本は日韓併合に走り、朝鮮半島の直接支配に踏み切った。

 この間、数百年にわたり朝鮮は戦場となり、他民族による植民地支配にさらされたわけであり、多くの犠牲を強いられたことに憤怒の情があることを理解しなければならない。

 戦後、韓国独立の後も日韓関係がすんなり正常化されたわけではなかった。正常化交渉はサンフランシスコ講和条約後14年の長きにわたり妥結されなかった。

 韓国は、そもそも併合条約は武力で強制されたもので当初から無効であり、日本は韓国に賠償・補償すべきだとこだわった。

 日本は、併合条約は有効に成立し、韓国とは戦争をしたわけでなく補償賠償には当たらないとした。結局、日韓併合条約は「もはや無効」との表現で妥協され、韓国の日本に対する請求権と日本が韓国に保有していた財産などへの請求権は相互放棄し、さらに日本が無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力を行うことで合意された。

 正常化後、日本は官民挙げて韓国の経済発展を助けた。日本政府は基本条約以上の経済協力を供与し、韓国の制度作りにも寄与、八幡製鉄(現・日本製鉄)を中心に韓国浦項製鉄所(現韓国最大の鉄鋼メーカー「ポスコ」)の設立を助け、三菱自動車は韓国現代自動車の発展を助けた。「漢江の奇跡」の背景には日本の多大な協力があったことも事実なのだろう。今日韓国は世界10番目の経済大国に成長し、1人あたり所得では日本と肩を並べるまでになっている。

 日韓の歴史認識を巡る問題は、歴史に目を向けたくないという問題だ。歴史の一部を切り取って、「日本は韓国に苦渋を強いた」とか「日本は韓国を助けたではないか」と断じる姿勢が問題なのだろう。歴史のどの部分に焦点を当てるかによって国民の認識は異なる。

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毎日新聞 2022年2月9日
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20220208/pol/00m/010/009000c
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