京都の人がコーヒーを勧める意味 「早く帰れ」説に地元民はどう答える [きつねうどん★]
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「京都人にコーヒーを勧められたら要注意!」。あるネット掲示板の書き込みによると、京都の人がコーヒーを勧める4つのフレーズの中で「飲んでいいのは一つだけ」であり、後は「早く帰ってほしい」と遠回しに伝えているという。2021年3月で終了した昼の情報番組「ちちんぷいぷい」(MBS)内の1コーナー「へぇ〜のコトノハ」が取り上げた内容だ。
京都の人には、なぜかこうした「言葉の裏側」のうわさがつきまとう。京都にゆかりのある男女14人に、コーヒーを勧めるのは「帰ってほしい」サインなのか取材した。
14人中12人の反応は
調査の結果、12人が「そのような意味合いは込めない」、「そんなことは聞いたためしがない」とバッサリだった。
・コーヒーはおしゃべりしながらまったり過ごすための飲み物だと、私自身は勝手に思ってますね!(京都在住30代男性Aさん/京都居住歴25年) ・勧められたら、言葉のままに受け取っています。勧められたとき、「帰ってほしいという意味かな」ととらえることもないです(京都在住40代男性Bさん/居住歴45年)
・普通においしくいただいてました。今思えば、図々しい!?(京都在住50代女性Cさん/居住歴20年)
京都生まれ京都育ち・50代男性Dさんは、「客が来て、そろそろ締めの時間かなぁという時にコーヒーで締めますかという感じで、『コーヒー飲む?』とは聞く」そうだ。「帰ってほしい」というニュアンスでは、全くない。
残り二人は、こんな意見だ。京都に15年ほど住んでいた40代男性Eさんは、「ほとんどの場合、こめてないと思う」。もう一人、京都生まれ、39年ほどの居住歴がある大阪在住40代男性Fさんは、相手にコーヒーを勧めるとき、「あからさまに帰ってほしいという意味合いはないが、話の流れを変えてひと段落させたいという気持ちはある」。
「そろそろお開き」とは思う
逆に、自分がコーヒーを逆に勧められた場合には、「終わりの合図」と受け取ることがある人も。
「ネガティブではなく、『そろそろお開きかな』と思います」とは、京都在住30代女性Gさん(京都生まれ・育ち)。滋賀出身で、京都市在住30代女性Hさん(居住歴8年)は、「そろそろお暇しますので、大丈夫ですよ」と断ったことがあるそうだ。「大体、双方がそろそろ...と思っているのではという雰囲気」で使われるケースが多いとみている。
では本当に「帰ってほしい」とき、どう伝えるのか。
【遠回し派】 ・「もうこんな時間!!今日は楽しかったなぁー(もう疲れた。そろそろ帰って)」と言う、「じゃあ次は○○やね?」と相手に次の予定を聞く(京都在住40代男性Iさん/居住歴45年)
・「暗くなってきましたね」とか、「お時間大丈夫ですか?」とか(女性Gさん)
【ストレート派】 ・「用事がありますので」と言います(京都在住60代男性Jさん/京都生まれ・育ち)
・「お開きにしよう!用事あるし帰ってもらってもいいか?」と言う(京都在住40代女性Kさん/居住歴30年)
「遠回し派」の男性Iさんは「京都人の自覚はあまりないですが、遠回しに伝えるのが当たり前で今まできているので、(直接伝える表現は)正直思いつかないです」と答えた。「この質問で、私も京都人なのかも...と思いました」。
https://www.j-cast.com/trend/2021/10/22423036.html 広島からきた観光客に
先の大戦は応仁の乱って言うようなもの メディアちゅうもんは上方文化を破壊するの好きやな〜 実際は京都より東京や関東の方が陰湿で全般的に知能も民度低いよ
そもそも関東人はノーベル賞もとれない田舎者の分際でw 最初にコーヒーか緑茶どっちにすると訊かれたら緑茶と言わんと京都では礼儀知らず >>1
そんなことおへんえ
ややこしなることいわんといとくれやす 座布団出されても固辞しないと陰でボロカスに言われる京都。根性が歪んでるわあ このまえ京都行ったけど、若い奴らはフレンドリーなんだよな。イヤミで上から目線なのは中高年。 自覚がないってことだから、下手すると
人と普通に話ができないよ
あまり、ほのめかしてばかりいると、普通に話せなくなる
聞いた話では京都の人の言動は7回本音がでてきてやっと本当の本音が出てくるという
建前の建前の建前の建前の建前の建前の建前
(言葉の順番通りに番号振ると7つめ,6,5,4,3,2,1つめにでてくるってこと)
見た通りの意味がなく、オブラートに包むのをやりすぎるから
京都人からみて、たぶん誰からも理解してもらえない気持ちなんじゃないかな 全部の行動を建前にするから、
全部の行動に裏の意味が有る
こういう人見たことがある
どう言っても真意が別のところに合って
会話が成立しないまま過ごす羽目になる
Aという行動をとりたいから、建前としてBをする。
見た目はBになると思われても困るので、何もしていないように装う
これで、どうやって思いを伝えるんだろう
京都人はたぶんこれで良いと思っているので
事実を事実のまま表現したことがないんじゃないかな
あまりカッコつけすぎると、本心が言えなくなる
パソコンを指さして、これはパソコンですと言っても、裏があることになるから
あなたは本当は何がしたいんですか
何が言いたいんですかと思われる
あと、全部の行動を建前にすると
最悪、自分に嘘をつく羽目になる
本当にやりたいことと違うことをしないと建前にはならないので
他人からは違う事をやろうとしていると思われる
それを建前で伝えようとして、できるだけ見えないようにする
本当に思っていることをやるのにストレートだと失礼だと何故か思うので
違うことBをする。違う事Bに見えては失礼なので、何もしていない風を装う 難しい話になったが、建前が過ぎるとこうなるってこと
だから京都の人は、人が現実、真意を理解してくれたと思ったことがないんじゃないかな
変えすぎるので、何をするのも過剰に複雑になる
支離滅裂になる
何でもかんでも言わないようにすればいいわけじゃなくて
単に情報量を減らして、精神ダメージがないように伝えるのは
建前じゃないんだよ
思いやりがある人が、京都の人みたいに何重も表現法を勝手に変えていない
でも、精神的ダメージが全然ないように伝えることはできている
京都の人のようなやりかたは、どこか誤解があるんじゃないかな
日本では言霊の使い方をどこか勘違いしているが、
建前の使い方もどこか勘違いがあるんじゃないかな
際限なく建前にして何一つ決まらない言葉だけでしゃべって過ごすなんて
他人を信用しない人とか、逃げたい気持ちの人が
何もしない理由のために言い訳するのと似ている。
何もしたくない人は、やらない理由を言いたくなるんだ。
何かすることそのものを他人への精神攻撃と思うと思うと
何もしてはいけなくなってしまう
できないことをやろうとしてしまっているので
ものの伝え方をどこか間違っているんじゃないかな 誤解させるつもりはないんだけど、事実だから書く。
何をしても精神攻撃と解釈する人は、頭が悪いんだ。
考えてみよう。
あなたは目の前にあるもの何もかもがあなたを傷つけるものに見えるでしょうか?
人が何を言っても「なんてひどいことを言うんだ」と思うでしょうか?
たぶん、思わないはずです。
ということは、建前をやり過ぎなくても、人に物は伝えられるし
伝えたからと言って、他人は精神的ダメージを受けるわけがないんですよ
それなのに、そういうことを一切考えずに
「何を言っても相手は傷つくに決まっている」ということにして行動を決めると
普通にしゃべるだけで過労死するくらい大変なんじゃないですか?
他人がとくに傷ついてもいないのを確認できずに
「傷ついているかもしれない」と思い込んで、傷つかないように全部をほのめかそうとする。
決して直接表現を言わないようにしている。
ハッキリ言えば、どっちつかずな態度で、自分ではモノを決めないように気を付けている 京都人のプライドはものすごい
過去に仕事で一緒になったことあるけどもうごめんだわ 実は、どっちともとれるような中途半端な態度になるほうが他人は傷つくのです。
それが現実であって、京都の人が思っていることはおそらく妄想です。
思っているだけで、実際にそうなってはいないでしょう。
現実と違っていれば、建前をすればするほど現実とズレていきます。
他人は、京都の人はなんでズレているのか理解しようがありません。
誰からも理解されない文化をこれでいいんだというのは、支離滅裂をやめないことにつながる。
日本は独特の文化があり、外国とは違うことをするのを誇りとしています。
そうするとどうなっているかというと、外国が科学的根拠で正しいことをすると
日本は違うことを作り出さなければならないのです。
その日本の行動は、どうみても何か誤解しているように見えませんか。
状況を理解しようともせず、ただ思っているだけで行動したら、
ますます現実とズレてしまうのです。 洗練されたすごい文化が人から理解されないほど素晴らしいのは分かりますが
人と違うことだけを誇りとしたら、言葉は汚いですがイタイ人です。
上記の支離滅裂なほのめかしだらけの言動と言うのは
心理学の「無自覚な発達障害」の可能性があります。
なんとなく思うことだけを優先して、周りで起きていることをそのまま記憶しないのです。
京都の人はこういう性格をしているんじゃないですかね、と言えば
京都の抹茶はいいねとか、自分のこととして考えてしまう人は、
ハッキリ言って他人の立場を理解していない人なのです。
自分で考える部分と、見たままを記憶する部分がごっちゃになっていると思われます。
違う考え方をしてみると
京都人は事件の真相を見抜けるでしょうか。
またはどのように見抜くでしょうか。
科学的根拠よりも、腹が立つかどうかで物を決めたりしてませんか。
残念ながら、自分のことを基準に物事を決める人とは会話が成り立っていないのが現実なのです。
そういうことをわざとやっているような文化は、
よほど気を付けないと、個人を尊重できなくなるでしょう。
個人を尊重する気がないのならともかく、少しでも個人を大切にするなら
こういう支離滅裂な言動は、いずれやめなければいけなくなるでしょう。
日本国として支離滅裂な言動をやめたことはないですが
むしろ、人として残念な部類だと思われるでしょう。 仮に支離滅裂を解決する方法を考えるなら
京都の人は本当は何がしたいのか、良く整理したほうがいいでしょう。
アメリカは逆に行動が速すぎて、客観的すぎて
個人の行動が、理屈を重視して決まってしまいます。
人の気持ちは一瞬で動くことはないですが、思考が速すぎて
日常生活の判断も一瞬で決めてしまいます。
それゆえに自分で腹が立ってしまい、本当の気持ちとズレているのです。
無理のない言動とは、
気持ちが動く速度で物事を決めることです。
建前だらけで決めないように気を付けると
真意も建前も実行しませんので、やらなかった後悔が来るんですね。
アメリカみたいに早すぎると、
気持ちが動くのがついていけなくて、気持ちが決まる前に理屈で動きます。
一瞬で行動しようとしますので、自分は本当は何がしたいか思うこともなく実行します。
実行してから何か感じますので、実行の結果と真意が違うと傷つくのです。
自分で自分を傷つけます。
自分が望んでもいないことを、先に理屈でやってしまっているからです。
これは「自分に嘘をつく」といって、
自分に嘘をつくのは非常につらいのです。 本当はこれがやりたいのに、自分で勝手に変えてしまう。
やらなかった悲しみを自分で作ってしまうのです。
もうできないんだ、悲しい。
理屈が大事なので、悲しいまま実行します。
そうなると、この悲しい気持ちを隠す必要が出てくるんですね。
そうやって、変な行動をしてしまうわけです。
結果として、行動には筋が通っていなくて、
真意を表現しない、本当はやりたくないことを作り続ける。
嘘の上塗りをしてしまうんですね。
悲しいことになるのは、自分が本当にやりたいことと
違うことを作っているためです。
だから自分が本当にやりたいことを理解しようとしない限り
辛い気持ちは決して消えないのです。
この辛い気持ちを消すことができない人が、
結果としてキチガイじみた言動をしてしまうわけです。
辛い気持ちが育ち続け、IQが下がりっぱなしになって
ちょっと考えればわかることは理解できなくなってしまうのです。
いつしか、建前が当たり前、
事実のまま、思った通りに行動しなくなるのです。
建前が過ぎると、自分に嘘をついてしまうのです。 苦しみが大きくない人は
自分の本当にやりたいことと
表現の技法が一致している。
自分がやりたいことを、どうやって表現すれば
嘘にならないか、それができている。
自分に嘘をつかない人は
辛い気持ちがでてこないように行動できるのです。
この方法が分からないから、
多くの人は本当にやりたいことを感じたら
的確に表現できなくて、
「本当はこんなことが言いたかったんじゃない」となるのです。
どう言えば本当に言いたいことを表現できるか知らないのです。
これを練習し、出来るようになった人が
思ったことを相手を傷つけないように表現できるようになっているのです。
京都のような建前だらけの日常を送る人たちは
優れた文化もあるでしょうが
想いを上手に伝えていないだけなのかもしれませんよ。
建前とか、自分が思ったことを
独自の工夫をしないと伝えられないと思う人は
人は、どうやって物を理解するかを良く整理したほうがいいと思います
こういう文字を書いたけど
相手はこういう文字とは違う解釈をしているかもしれない
そんなことを考えているから
他人に物を伝えるための良い方法がいつまでたってもわからないのです。
これがわからないままで良いとする文化は
他人とまともに会話しなくてもいい文化かもしれません。
そうではなく
他人とまともに会話もできる文化を作ってほしい
たんに会話能力がないだけなんてことがないように 最後に、たまたま文学の本で
こういうことが出ていたので話して終わります。
文学を研究する我々は、非科学的な研究を科学的に追及するという
矛盾したことをやる必要がある。
これをどのように表現するかが大事である。
そんな風なことが書かれていました。
多くの人は、巨大な誤解をしているんです。
非論理的なことと、論理的なことは一緒には出来ません。
しかし、同時並行で使わなければいけないのです。
これだけは、本当に多くの人が理解できていないのです。
「理屈ではない」と言っている人ですら、理屈の部分と
理屈ではない部分を同時に使っている人が少ないのです。
理屈を重視している人は、明確に理屈にない部分を毛嫌いします。
このように、同時に使う人はあまりいないのです。
理屈にない部分だけでは現実は見えない。
理屈の部分だけでは現実は見えない。
同時に使わない限り、現実に近い理解は不可能という事です。
このことを忘れないように。
理屈にない部分のほうが大きいのが現実と言うだけであって
理屈じゃないからいいのではありません。
理屈を理解しないと、京都の文化を表現する行動も作れなかったのですから。
理屈にない部分を、如何に理屈をつかって表現するかを人類は心掛けなければいけない。
この逆では何もわかるようにはならないのです。
理屈だけを重視して、理屈にない部分を考えないようにすると
自由経済、全体主義という、一方的なことしかやっていないのです。
よりよい理解と行動をするために
理屈にない部分を表現するために、理屈を駆使しましょう。
どちらも理解しない限り、ちゃんと伝えられないと思います。
だから、理屈にない部分を重視する人のほとんどが、説明がへたくそなのです そういうことで
京都の人のようなはぐらかしてばかりいる人たちは
これくらいは言葉にしても誰も傷つかないのを
徹底的に納得してください。
ここまでなら誰も傷つかない、という言い方があるのです。
思いやりが強い人は、京都人のように全部を建前にはしません。
建前は自分の心を重視しているのであって
思いやりとは相手の心を重視ているのです。
自分のことしか考えていない人は建前ばかりを言ってしまい、
人のことを考えられる人は、建前をやりすぎなくても
ストレートに言っても、相手が全く気ずつかないように話せるのです。
京都人は誤解しないでください。
建前で人を傷つけないように振舞うのではありません。
人を傷つけないように振舞う気があれば、建前ができていなくても
人を傷つけないように言うことはできるのです。
自分のことばかり考えている人ではなく
周りも見る勇気がある人は、建前の盾に隠れたりしなくても生きていけるのです。
建前があまりにも多すぎるのは、建前という盾に隠れて目をつむっているに過ぎないのです。
おわり 独特??
じゃなくて、在日朝鮮人とやくざと部落民しかいないから・・・
腹黒い?・・当然w!! 京都の店で「いらっしゃいませ」と声掛けされたら、
「よそ者は出ていけ」の意味だと思っています。 京都なんか行くかよ、偉そうに変なもんでも土産でも高いしな、潰れろクソ京都 六波羅探題を再設置して共産主義者と公家じゃないのに公家の様にふるまう市民を
取り締まるべきだ。 京都の人はなんでこんなふうにイヤミっぽいとか言われまくってるの? 本音を建前でつつんでやんわり伝えるのは普通のことなのに京都が絡むとえらくえげつないことのように受け取られるんやなぁ。それとも皆さんどストレートにしかモノの言えない人達?w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています