梅毒は、西インド諸島の風土病だったものが、全世界に広がってしまった病気です。その原因は、コロンブスの新大陸発見が、きっかけだったと言われています。梅毒は、どのようにしてヨーロッパに持ち込まれ、世界中に広がったのでしょうか。

コロンブスの功罪
イタリア出身のコロンブスは、イタリアから西回りに出航すれば、新大陸にたどり着けると信じていました。そして、その先にはマルコポーロの東方見聞録にあるように、黄金の国ジパングがあると考えていたのです。

1492年8月3日、コロンブスは西へと向けて出港します。そしてバハマ諸島やキューバを発見しましたが、そこは新大陸でもジパングでもありませんでした。しかし、ヨーロッパは未知の大陸発見の報に沸き立ちます。なぜなら、大西洋の遥か向こうに、豊かな大地があるとわかったからです。

その後、多くのヨーロッパ人が「新大陸」に移住することになりました。そして、そこで建国された国の1つが、現在のアメリカ合衆国です。しかし、多数のヨーロッパ人が移住した結果、古くからアメリカ大陸に住んでいた、多くの部族が絶滅寸前まで追い込まれ、数百万人もの犠牲者が出てしまいました。

また、コロンブスはかつて、アフリカの奴隷商人でしたが、新大陸でも同様に奴隷売買を始めたので、大きな批判が集まりました。ちなみに、有名な「コロンブスの卵」のエピソードは、建築家フィリッポ・ブルネレスキの逸話を、そのまま流用したものであることがわかっています。

このように、現在ではコロンブスの功績については、懐疑的な見方が強く、彼の新大陸発見を称えるために制定された、「コロンブス・デー」も、最近では祝日と見なされなくなっています。コロンブスが発見したのは、新大陸ではありませんでした。しかし、コロンブスは死ぬまで、自分が到達したのは新大陸であり、その先にあるジパングに通じる航路を発見したと、信じていたということです。

梅毒とコロンブス
梅毒がヨーロッパに広まったのは、1493に行われたコロンブス一行による、第1回アメリカ探検隊に参加したクルーの1人が、現地の女性と性交渉を持ったために、梅毒に感染したからだと言われています。その後、このクルーが傭兵となって、イタリア戦争に参戦したため、またたく間にフランスやイタリアに、梅毒が広がってしまいました。

フランスやイタリアで流行したため、当時梅毒はナポリ病、フランス病などと呼ばれていました。西インド諸島から持ち帰られた梅毒は、ヨーロッパで感染が確認されてから1年半後には、シルクロードを通って上海まで広がったということです。

日本にも感染が広がる
猛威を振るう梅毒は、永正9年(1512)には京都まで感染が広がり、あっという間に日本中に拡大しました。そのため、当時の戦国武将の中にも、梅毒に苦しむ人が数多くいたようです。江戸時代に入ると、芸者や遊女の業界である花柳界で、梅毒が大流行したため、花柳病と呼ばれることもありました。江戸幕府は、吉原などの遊郭を積極的に作りましたが、これは梅毒の蔓延を防ぐために、遊女の衛生管理が必要だったからとも言われています。