公園に胸像、トルコで英雄になった日本人 大地震の救援で犠牲に 10年後の今も語り継がれる

 日本から遠く離れたトルコで英雄として胸像が建てられ、公園や学校に名前が付けられた日本人がいる。10年前のトルコ東部ワンの大地震で、NPO法人職員として被災地支援に駆け付け、建物の崩壊で死亡した大分市出身の宮崎淳さん=当時(41)だ。東京のNPOに入り、海外の被災地支援を始めたばかりの宮崎さんの死を、人々が今も語り継ぐのはなぜか。(共同通信=橋本新治、安尾亜紀、高山裕康)

 ▽ミヤザキ公園

 「地震でみんなが逃げ出したのに、遠い日本から手を差し伸べに来てくれた。私たちのことを知りもしないのに」。ことし10月下旬に全面完成したワンのミヤザキ森林公園で、子連れの母エスメル・ウストゥンさん(24)は話した。公園には宮崎さんの胸像がそびえ、地元ワン県の知事らが参加した開園式典が開かれていた。 

 ワンでは2011年10月と11月に大きな地震があり、600人以上が死亡。宮崎さんはNPO「難民を助ける会」(東京)の職員として1回目の地震後に現地入りしたが、2回目の地震で宿泊先のホテルが崩壊、死亡した。部屋の中で、机に座っている状態でがれきに埋まったという。翌日の支援の準備をしていたのかもしれない。

 ▽遺体は国葬級

 宮崎さんの死は、親日的なトルコ社会に大きな衝撃を与えた。遺体は国葬級でトルコから日本に運ばれた。その後、ワンだけでなく、最大都市イスタンブールや西部イズミルなどに宮崎さんの名を冠した公園や学校が造られた。

 大分市に住む宮崎さんの母、恵子さん(78)のもとにはトルコから多くの手紙や宮崎さんをしのぶ絵本が送られてきた。ことし11月にはトルコの記者が取材に訪れた。10年前に亡くなった日本人に、今もなお強い関心を持っている。

 ▽決して忘れない

 海外で尊敬を集める日本人といえば、紛争下のアフガニスタンで医療や用水路建設に尽力した故中村哲さんや、ヒマラヤのブータンの食料事情を一変させ「農業の父」と呼ばれる故西岡京治さんらが浮かぶ。彼らのような半ば伝説的な人々と、現地で支援活動を始めたばかりだった宮崎さんはやや異なるが、なぜ語り継がれるのか。

 10年前、被災地ワン近郊のディベクドズ村に住む女性が、その回答につながる言葉を記者に語っていた。寒さが厳しい村は舗装道路もなく、極度の貧困の中にあったが、宮崎さんの支援で肉や食用油が届けられていた。「日本がどれだけ豊かな国かわたしは知っています。そこを離れて、小さな村に助けに来てくれた。わたしたちは決して忘れません」

 ▽夜通しの介護

 母親の恵子さんらによると、長男だった宮崎さんは大学を卒業後、英国の大学院で紛争解決学を学んだが、病気で倒れた父の介護のために故郷に戻った。「大学院の卒業式にも出ないで、急いで戻りました」と恵子さんが振り返る。

 役所の臨時職で働きながら、介護に夜通し当たった。09年に父が79歳で死去して数カ月後、宮崎さんはこう切り出したという。

 「お母さん。そろそろ行っていいだろうか」

 国際協力に携わる夢と父の介護との間で葛藤し続けていたのかもしれない。「優しい子でした」と語った。