『三国志』は知らなくても「泣いて馬謖を斬る」という言葉なら知っている……。そういう方は、一定数おられるようだ。その馬謖(190〜228年)とは、軍令違反の罪で蜀の丞相(じょうしょう)諸葛亮に処刑された人物だ。どんな男だったのか、その故事にまつわる秘話を史書から紐解いてみたい。

南征で「心を攻めるべき」と進言、有能ぶりを示す

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五丈原鎮(陝西省)の祠にまつられる馬謖の像。馬謖像は成都にもまつられておらず、きわめて珍しい。筆者撮影

 馬謖は荊州(けいしゅう)の出身で、諸葛亮が軍権を得てから重用された人である。年齢は諸葛亮より9歳年下、良き愛弟子でもあった。正史『三国志』にも「並外れた才能の持ち主」と記され、一目置かれていたことが明らかである。

 224年、諸葛亮は蜀の南方に割拠する豪族・孟獲(もうかく)らを討伐に向かった。このとき、馬謖は「心を攻めることが上策、戦うことは下策です。心を屈服させるべきです」と進言。諸葛亮はそれに従うかたちで、敵を7度も捕らえながら何度も逃がして孟獲らを心服させた。諸葛亮は、自分の意に沿う考えを持つ馬謖にさらなる信頼を置いたとみられる。

 西暦228年、南方を制した諸葛亮は北伐(魏の討伐)に出る。そして満を持して馬謖に先鋒を命じた。人々は魏延(ぎえん)、呉懿(ごい)など経験に富む将を推したが、それを退けての抜擢であった。

 だが結果、馬謖は街亭(がいてい)で大敗する。「街道を死守せよ」という諸葛亮の命令に背いて山上に布陣し、水の手を断たれたのである。必ず確保すべき前線拠点・街亭の失陥は痛恨の出来事で、諸葛亮はそれまでに得た拠点を放棄して全軍を撤退させる。こうして第一次北伐は失敗に終わった。

 諸葛亮は馬謖を処刑し、兵たちに失策を詫びた。皇帝・劉禅(りゅうぜん)に申し入れ、みずからを丞相から右将軍へ3階級も降格処分にした。厳格すぎる処罰を問う声に、諸葛亮は涙しながら言った。「法を無視して、どうして魏を討つことができよう」(『襄陽記』)。

 私情を挟まず、法に則って部下を罰した諸葛亮、潔く受けた馬謖。両者の姿勢は後世、美談のように称えられる。「三国志演義」では「孔明揮涙斬馬謖」の題名で盛り上がる局面だ。それが独り歩きして「泣いて馬謖を斬る」という故事成語が、近代小説や一般社会でも使われるようになった。その一語が、あたかも諸葛亮自身が軍刀で部下を殺めたかのような悲壮な姿を想像させるのかもしれない。

 ただ、実情はどうも違ったらしい。注意深く『三国志』を読んでみると、いろいろと異なる記述が出てくるのだ。『蜀志』向朗伝によると「謖逃亡」、つまり街亭で負けた馬謖は、逃亡をはかったらしい。脱獄したのか、逃亡を助けた人がいたのかもしれない。実際、馬謖と同郷人の向朗(しょうろう)が、彼が逃げるのを黙殺した罪で、諸葛亮に職を解かれている。

諸葛亮は馬謖を斬らなかった?
 死罪を恐れ、逃げようとするも捕まって斬られた。そうなると、だいぶイメージが異なってくる。だが、もうひとつ肝心な書を忘れてはならない。『蜀志』馬謖伝である。それによると「謖下獄物故」、つまり馬謖は処刑ではなく「獄死」したという。

 獄で死んだとなれば、諸葛亮は馬謖を「斬っていない」わけである。当時の書物に、この手の食い違いは多々あるが、何とも謎めいた最期といえよう。

 5世紀の東晋の史家・習鑿歯(しゅうさくし)は「諸葛亮が中国を併呑(へいどん)できなかったのも当然である」と、手厳しく批判した(『襄陽記』)。馬謖を抜擢したこと、蜀は人材が少ないにも関わらず馬謖を処刑したこと、この2つをミスとして挙げている。

 実際、諸葛亮の五度におよぶ北伐は失敗に終わった。諸人の反対を押しての馬謖の抜擢が、最後まで尾をひいたことは確かといえよう。だが、もうひとつの処刑はどうか。生き延びたとして、汚名返上できたであろうか。「馬謖は口先だけの男。重要なことを任せてはならない」と言い残していた劉備の言葉は辛辣だが、それを思うと結果はあまり変わらなかったのかもしれない。

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