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前田利家のドケチぶりとは?(写真:omega2000/PIXTA)

「加賀百万石」でも有名な前田利家、実は超のつくほどドケチだったことをご存知でしょうか? また、伊達政宗は豊臣秀吉から「ATM」のような扱いを受けていたことも知られざる事実です。 前田利家と伊達政宗の年収事情を、作家で歴史エッセイストの堀江宏樹氏の新刊『偉人の年収』(イースト・プレス)より一部抜粋・再構成してお届けします。

現代では高い人気を誇るけれど、生前はそこまで支持されていなかった偉人は案外いるようです。豊臣秀吉には親友として、そして忠実な部下として誠意を尽くした前田利家も、家臣や家族たちからは「ケチ」という理由で白眼視されていたと思われます。

“派遣社員”に行政を丸投げ
豊臣秀吉の政治活動を支えるべく、身も蓋もない集金活動に勤しんでいた頃の利家には、最大で80万石ほどの領地が与えられていました。しかし、越中40万石は嫡男・利長、また能登20万石は次男・利政に与えており、利家自身は20万石でなんとかせねばなりません。1万石以上の石高を与えた家臣もチラホラおり、20万石のうち6%ほどが家老のために費やされていたといいます。

行政関係はすべて武士たちに任せるのが通例でしたが、それではお金が足りなくなるので、利家は有力な農民42名を雇って「すべて地下のこと肝煎りすべし(=庶民の間のことは、君たちに任せるから励みなさい)」と命じ、いわば臨時雇いの“派遣社員”たちに丸投げするなど露骨な出費対策を始めます。

“正社員”の家臣の雇用も完全に滞るようになっていきます。「人手が足りない」と文句を言いながらも新しい社員の雇用だけは絶対にしない、現代のケチ経営者と同じようなニオイがしますが、やはり利家に反旗を翻す家臣も現れました。しかも、それは利家にとっては織田信長に仕えていた時からの仲間である佐々成政でした。

佐々軍1万5000人に能登末森城を取り囲まれ、利家は焦ります。家臣の雇用をケチってきたツケで城には1500人しかおらず、利家の居城だった金沢城にも2500人しかいない中から1000人を割り振って派遣、本当に2500人の“気合い”だけで、兵数6倍以上の佐々軍を撃退することができたそうです。

しかし利家は未曾有の危機を招いたドケチぶりを悔い改めるどころか、「人間死ぬ気でやればなんとかなる」的に、「かつて私は、佐々軍2万人を3000人で討ち果たしたのだよ」と微妙に数字を盛った“美談”にすべてを脳内変換しており、次男・利政は「オヤジの自慢話を何度も聞かされた」と証言しています。

文禄元年(1592年)、秀吉の「朝鮮出兵」こと「文禄の役」が始まると、前田家は現代でいう100億円以上もの費用を負担し、バカげた戦に協力したようです。家中の財政は火の車となりました。しかしさらなる献金で秀吉を喜ばせたい利家は、文禄3年(1594年)の正月、「私への年始の挨拶には『礼銭』を支払うように」と言いだしました。地位に応じて200文〜1貫文に設定された“お年玉”を、家臣にねだったのです。

現代日本の貨幣価値に換算すると、戦国時代後期の1文=80円、1貫文=8万円に相当します。よって1万6000〜8万円の負担でしたが、仮病を使って挨拶にこない家臣もいました。