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前田利家「家臣にお年玉をねだる」超ドケチ事情 [きつねうどん★]
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2022/02/06(日) 17:27:09.88ID:CAP_USER
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前田利家のドケチぶりとは?(写真:omega2000/PIXTA)

「加賀百万石」でも有名な前田利家、実は超のつくほどドケチだったことをご存知でしょうか? また、伊達政宗は豊臣秀吉から「ATM」のような扱いを受けていたことも知られざる事実です。 前田利家と伊達政宗の年収事情を、作家で歴史エッセイストの堀江宏樹氏の新刊『偉人の年収』(イースト・プレス)より一部抜粋・再構成してお届けします。

現代では高い人気を誇るけれど、生前はそこまで支持されていなかった偉人は案外いるようです。豊臣秀吉には親友として、そして忠実な部下として誠意を尽くした前田利家も、家臣や家族たちからは「ケチ」という理由で白眼視されていたと思われます。

“派遣社員”に行政を丸投げ
豊臣秀吉の政治活動を支えるべく、身も蓋もない集金活動に勤しんでいた頃の利家には、最大で80万石ほどの領地が与えられていました。しかし、越中40万石は嫡男・利長、また能登20万石は次男・利政に与えており、利家自身は20万石でなんとかせねばなりません。1万石以上の石高を与えた家臣もチラホラおり、20万石のうち6%ほどが家老のために費やされていたといいます。

行政関係はすべて武士たちに任せるのが通例でしたが、それではお金が足りなくなるので、利家は有力な農民42名を雇って「すべて地下のこと肝煎りすべし(=庶民の間のことは、君たちに任せるから励みなさい)」と命じ、いわば臨時雇いの“派遣社員”たちに丸投げするなど露骨な出費対策を始めます。

“正社員”の家臣の雇用も完全に滞るようになっていきます。「人手が足りない」と文句を言いながらも新しい社員の雇用だけは絶対にしない、現代のケチ経営者と同じようなニオイがしますが、やはり利家に反旗を翻す家臣も現れました。しかも、それは利家にとっては織田信長に仕えていた時からの仲間である佐々成政でした。

佐々軍1万5000人に能登末森城を取り囲まれ、利家は焦ります。家臣の雇用をケチってきたツケで城には1500人しかおらず、利家の居城だった金沢城にも2500人しかいない中から1000人を割り振って派遣、本当に2500人の“気合い”だけで、兵数6倍以上の佐々軍を撃退することができたそうです。

しかし利家は未曾有の危機を招いたドケチぶりを悔い改めるどころか、「人間死ぬ気でやればなんとかなる」的に、「かつて私は、佐々軍2万人を3000人で討ち果たしたのだよ」と微妙に数字を盛った“美談”にすべてを脳内変換しており、次男・利政は「オヤジの自慢話を何度も聞かされた」と証言しています。

文禄元年(1592年)、秀吉の「朝鮮出兵」こと「文禄の役」が始まると、前田家は現代でいう100億円以上もの費用を負担し、バカげた戦に協力したようです。家中の財政は火の車となりました。しかしさらなる献金で秀吉を喜ばせたい利家は、文禄3年(1594年)の正月、「私への年始の挨拶には『礼銭』を支払うように」と言いだしました。地位に応じて200文〜1貫文に設定された“お年玉”を、家臣にねだったのです。

現代日本の貨幣価値に換算すると、戦国時代後期の1文=80円、1貫文=8万円に相当します。よって1万6000〜8万円の負担でしたが、仮病を使って挨拶にこない家臣もいました。
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垢版 |
2022/02/06(日) 17:27:16.76ID:CAP_USER
利家は「200文を惜しんで年賀の挨拶にこないとはけしからん」と家臣の薄情さを嘆いたそうですが、握手会にファンが集まらなくなったアイドルのような口ぶりで、なんだか笑ってしまいます。

なおこの頃の前田家では、節約の証として、和紙で作られた「紙子」の衣装の着用が家臣たちに求められていました。真冬の1月の話ですから、こちらは正直、笑えない話です。

秀吉のATMだった伊達政宗
次は、伊達政宗の金銭事情について。戦国時代の中でも極めて裕福だった“富豪武将”の一人が政宗です。

しかし、政宗は金に苦労した武将でもありました。なぜなら豊臣秀吉によってその豊富な財力をアテにされてしまい、事あるごとに搾り取られたからです。
秀吉は金塊だけで金9万枚、銀16万枚、評価額にして250万両を大坂城内に貯めこんでいたといわれますが、その一部は政宗からの献金であり、彼の涙の結晶だったことは知られざる事実です。

かつては秀吉からの臣従の命を無視してきた政宗が、(一説に)死装束をまとい、小田原の秀吉の前に現れたのが天正18年(1590年)夏です。秀吉は当時、後北条家を討つべく、小田原周辺に陣を構えていました。この時、秀吉の心を動かしたのは死をも覚悟で現れた政宗の気概、そして彼が「ご挨拶」として持ってきた金塊でした。

その場は丸く収まったものの、秀吉は何かあるたびに、忠誠心を試すような形で多額の出費を強いるようになりました。政宗は秀吉から、引き出し自由のATMのような扱いを受けるようになってしまったのです。

秀吉晩年の愚行として知られる「朝鮮出兵」こと「文禄・慶長の役」にも、政宗は数千人規模のボランティア出兵を命じられています。兵士たちの食費だけを考えても、負担額は凄まじいものでした。仮に伊達軍が3000人で、出兵期間が2年とすると、それだけで1万3000石あまりの出費になってしまったのです。

1万石=15億円として換算した場合、現代の貨幣価値にして約20億円もの負担であり、武器などの必要経費も入れれば、さらに、4〜5億円の出費がかさんだと考えられます。

理不尽なまでの献身を強いられても、秀吉からは謀反の嫌疑をかけられ続けるなどつらく当たられるのが政宗の常でした。そもそも、秀吉のねらいはリッチな伊達家の取り潰しだったのでしょうが。

徳川のおかげで伊達家の財力も復活
政宗が「関ヶ原の戦い」(慶長5年、1600年)で豊臣方を見限り、徳川方について戦った理由も、秀吉の守銭奴ぶりに辟易してしまっていたからかもしれません。


徳川家康はつらい立場にいた政宗に、「銀100貫」を融資しています。家康はほかの豊臣方の大名たちにも救いの手を差しのべており、彼らの多くが「関ヶ原の戦い」で徳川方につきました。「人心掌握の名手」と聞いて豊臣秀吉を思い出す方が多いでしょうが、家康も負けてはいません。

金の貸し借りは昔から信用問題です。融資を重ねて、相手の心をも掌握していく…‥そ
れが家康の恐るべき“人たらし”のテクニックだったのでしょう。そうして家康に物心ともに掌握された中に、かつては「奥州の覇者」と呼ばれた伊達政宗も含まれていたのです。世間でいう“金の切れ目が縁の切れ目”とは立場が逆ですが、豊臣家を見限った政宗は徳川につきました。

「関ヶ原の戦い」の後も、徳川家との協力関係は想像以上にうまくいき、伊達家の財力も復活を遂げました。人口が激増する江戸の街で領内の余剰米を売った政宗は、毎年12万5000貫文(=約50億円)もの現金収入を得られるようになります(橋場日月『戦国武将に学ぶ「必勝マネー術」』)。伊達家の徳川家への忠誠心は、幕末まで変わることなく続きました。

https://toyokeizai.net/articles/-/505350
0003Ψ
垢版 |
2022/02/06(日) 17:35:10.70ID:s4Q7woS1
これが現実
武士は食わねど高楊枝の武士道は
平和な時に武士の理想を提示してるだけで
実際の武士は戦場ではそれほど勇敢でもなく
言うことは親分肌でもやることは小物
今も昔も出世に長けた人間は金に細かい
0004Ψ
垢版 |
2022/02/06(日) 17:59:57.97ID:zuDGipZu
伊達が徳川に忠誠とか、秀吉が守銭奴だから家康に付いたとか突っ込み処満載だな
学者なら兎も角、エッセイストならこんなもんか
0005Ψ
垢版 |
2022/02/06(日) 18:09:35.73ID:7Wd5ffTO
>>4
佐々成政が前田利家の家臣だったみたいな書き方もしてるしな。
0006Ψ
垢版 |
2022/02/06(日) 18:15:32.01ID:ahrWYteV
ロリコンでホモの巨体


恐怖でしかない
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