日本と韓国のほぼ中間の沖合で演習していたキティホークと護衛艦は、海軍兵がニューヨークタイムズ紙に語った言葉を借りれば、ソ連の潜水艦と「猫とネズミの追いかけっこ」状態だったという。この潜水艦はのちに総重量5000トン、約90人の乗組員を乗せたビクター級の「K―314」であることが確認された。

海軍歴史遺産コマンドの報告書によると、米軍は衝突までの数日間ソ連潜水艦を追跡し、15回も「キル」――撃沈シミュレーション――を行っていた。

グリーンピースとワシントンの政策研究所による海軍事件をまとめた89年の報告書『ザ・ネプチューン・ペーパーズ』によれば、艦隊はその後「偽装技術」でソ連の追跡をまこうとした。

これはある程度は上手くいった。

84年3月21日、午後10時を過ぎてまもなく、空母の位置をとらえようとしたK―314が航行上に現れた。

ロシア軍のウェブサイト「トップウォー」には、その後の顛末(てんまつ)について潜水艦側の説明が記載されている。

「(K―314の)艦長は、衝突を避けるために緊急潜水の開始を命じた。潜水を始めて間もなく、潜水艦は強い衝撃を感じた。数秒後――ふたたび強力な衝撃をうけた。明らかに潜水艦が安全な水位まで潜る時間はなく、米軍艦隊のいずれかの船に追突された。のちにこれはキティホーク航空母艦であることが判明した」

この衝突で5000トンのソ連潜水艦が8万トンの米空母に敵(かな)うはずもなかったと、元米海軍諜報部員のカール・シュスター氏は述べた。同氏は衝突についての海軍からの報告に目を通している。

「死ぬほど恐ろしかったに違いない」(シュスター氏)

「キティホークに乗船していた誰もが潜水艦が潜航するだろうと考え、反対側で検知できるだろうと期待していた」と同氏は言い、スクリューのノイズとそれにより発生する圧力波のせいで近くに迫っていた潜水艦を検知できなかった点も指摘した。

「それどころか(潜水艦の艦長は)空母との距離を大きく見積もり過ぎていたのだろう、手遅れの状態になるまで潜航を始めなかった。それでスクリューの一部が空母の船体に残された」とシュスター氏は述べた。

K―314は動力を失い、のちにウラジオストクのソ連の港まで曳航(えいこう)されることになる。

キティホークは冷戦時代の勲章――ソ連潜水艦のスクリューの一部――を船体に残したまま、自前の動力で航行し続けた。

空母の船体には、水中でのより静かな潜航を可能とするソ連潜水艦のポリマー製吸音コーティングからはがれたタイルも付着していた。この事件を米軍による諜報奇襲攻撃と呼ぶ者もいたが、米軍海軍協会によれば、キティホークの乗組員も空母の司令センターに赤い潜水艦の「勝利マーク」を一時的に描いて、これを称えたという。

https://www.cnn.co.jp/storage/2022/03/18/d6f2457cfeae7a899995206065f60bdb/aircraft-carrier-kitty-hawk-scrapping-history-intl-hnk-ml-super-169.jpg
米国主導の連合国軍によるイラク空爆の任務中、キティホークに着艦する戦闘機を見守る乗組員=1993年1月19日/Barry Iverson/The Chronicle Collection/Getty Images