日本共産党が7月15日で結党100年を迎える。名前を変えず1世紀続いた日本唯一の政党であり、西側諸国最大の共産党でもある。過去に20年間、共産党に籍を置いた人間として、歴史と現在を素描したい。

侵略戦争に反対し続けた輝かしい党
 かつて、哲学者の鶴見俊輔さんは、共産党を北斗七星にたとえた。戦前から一貫して侵略戦争に反対し続けた共産党は、自分がどれだけ時流に流されたかを測る「動かぬ座標」だと。確かに、共産党の政党政治内の位置は、戦後もほぼ常に最左派で一貫性がある。

 そんな輝かしい党だが、党員は1987年の48万人から27万人、衆院議員は79年の39人から10人、参院議員も98年の23人から13人に減った。党員は高齢化していると聞く。衰退傾向は否めない。私の経験に、理由のヒントがあるかもしれない。

 私は、共産党員の両親の下に生まれた。高校生の頃、上田耕一郎さん(後に副委員長)らの論文に感動して、70年に18歳で入党した。当時、機関紙「赤旗」は長大な論文がしばしば載り、政治経済から文学まで全世界を分析し尽くす知的興奮に満ちていた。私の入った立命館大など複数の大学は、(共産党系青年組織)日本民主青年同盟の同盟員が1000人以上。若々しい党だった。

 大卒後は、共産党系の新日本出版社の編集者となった。党本部に出入りして、上田副委員長の部屋へもしばしばお邪魔した。国際情勢の見方から大江健三郎作品の面白さ、おいしい紅茶のいれ方までなんでも教えてくれた。「赤旗」編集局長だった吉岡吉典さんに「処分を受けるくらい(型破りな)いい仕事をしろ」と発破をかけられ、雑誌「文化評論」に大竹しのぶさん、淡谷のり子さんら芸能人を出すなど存分に働ける自分が、誇らしかった。

2回の査問の末、除籍処分に
 風向きが変わったきっかけは、80年の「文化評論」に載せた上田副委員長と作家の小田実さんの対談だ。事前に宮本顕治委員長(当時)も了解した企画で、掲載号は完売したが、数カ月後、小田さんが公の場で、共産党を、市民運動などを自党に系列化する「既成政党」として批判した。小田さんと共産党の関係が悪化し、私まで党内で批判された。84年、長時間の「査問」(追及)を受けた末に自己批判書を書かされ、社を追われた。

 ところが、2005年に小田さんと上田さんは雑誌で再び対談した。対立の総括や和解の経緯説明は一言もない。人生を変えられた者としては、どうしても解せなかった。

 新日本出版社退社後、党籍は残したままフリージャーナリストとなり、90年に「日本共産党への手紙」という本を編集した。共産党への批判や提言を加藤周一さんら文化人15人にもらった。事前に上田さんに相談すると、「いい企画だ」とうなずかれた。

 この本で党内外の自由かつ建設的な議論の種をまくつもりだったが、以前共産党に攻撃されたことなどを理由に寄稿を断る文化人は多かった。作家の佐多稲子さんは、用件を聞くなり受話器をガチャン。哲学者の久野収さんらも断った。