島流しされたあとの生活を想像したことは、ありますか?

地獄のような生活を送ったのではないかと考える人も多いかもしれませんが、時代によっては極楽のような日々を送っていたのです。

今回は意外と知られていない、「島流しをされたあとの生活」についてみていきましょう。

島流しとは

https://mag.japaaan.com/wp-content/uploads/2022/06/2018-07-11yoshitoshi.jpg
月岡芳年 画

罪人を流すことは一般的に流罪(るざい)と呼ばれ、追放先が島の場合には「島流し」といわれました。

罪人を辺鄙な地や離島に追放する刑罰のことで、死罪の次に重たい刑と言われていたようです。

追放先では孤独に生涯を終える受刑者が多くいる一方、源頼朝や後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように島流しから再起した人物もいます。

島流しになる罪
島流しには犯した罪の軽い順に「近流」「中流」「遠流」と種類がありました。

殺人や放火、子供の強姦といった重たい罪の場合は「遠流」となり、「都から1500里の場所へ島流しされた」と言います。ただし、1500里は日本の全長よりも長い距離であり、真実は不明です。近流の場合は、島流しされてから数年で免罪されることもあったのだとか。

島流し後にメリットもあった奈良時代
奈良時代では、島流しの対象に庶民も含まれていました。島流しされた罪人は1年間労役に服し、働きぶりが良ければ免罪になることも。

また、刑期を終えて本土へ戻ってきた者には生活できるだけの田畑が与えられました。当時の島流しには、 本土の技術や言語、思想など文化の伝播にも効果があったのと考えられています。

極楽すぎた平安時代の島流し後の生活
平安時代後期になると、島流しの対象は庶民から権力者へと変化しました。

これには「島流しを取り仕切っていた中央政権が、権力を強める輩のリーダーなどを死罪にするとことで組織全体を弱体化させるという意図があった」という説があります。

反乱を企てたり、政争に敗れたりした権力者たちは次々に島流しされましたが、官位にあわせた給与が国から与えられたそうです。しかも権力を持った人物の場合は島民からも歓迎されたため、酒池肉林のやりたい放題だったとか。羨ましですね。

室町~戦国時代の島流し
室町~戦国時代では流罪そのものが消滅します。
中央政権が機能しなくなったことで、地方への威令が届かなくなったためです。

地獄だった江戸時代の島流し後の生活
政権が江戸幕府へと集中したことで、島流しも再開。

江戸時代の島流しが本格化したのは、8代将軍・徳川吉宗が公事方御定書で法制化したことからです。また、当時は島流しではなく「遠島」と呼ばれ、場合によっては死罪よりも重い罪となります。

島流しとなった者は縄で縛られ、流人船と呼ばれる船に乗せられます。

船内には受刑者がぎゅうぎゅうに詰められ、疫病が蔓延することでクラスターを引き起こすことも多く、生きて島までたどり着けるのは半分ほどでした。そのため、流人船は「地獄の船」と称されることも。

たとえ生きて辿り着いたとしても迎えの船も来ず、脱出不可能なサバイバル生活を送る道しか残されていません。

そのため島流しされた者の多くが、飢餓で死んでいったのです。

時代によって雲泥の差がある「島流し」、皆様もどうせなら、平安時代の権力者になって流されてみたいと思いませんか?

https://mag.japaaan.com/archives/179573