日航機墜落事故からきょうで37年。当時、入社したばかりの日本航空の社員は近く定年退職を迎え、事故を直接知る社員はほとんどいなくなってしまいます。事故に触れてきた3人の方に話を聞きました。

墜落現場となった群馬県御巣鷹の尾根では、朝から慰霊登山が行われていました。

事故から37年。客室乗務員の大槻妙子さん(59)は事故のおよそ2週間前に日本航空に入社しました。

日本航空 客室乗務職 大槻妙子さん
「自分たちが(123便に)乗務していてもなんら不思議はない」

事故当日、新人研修を終えた大槻さんは、会社の寮で同僚とテレビを見ていて事故の一報を聞きました。

羽田発大阪空港行き日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落。520人が犠牲になったという知らせは衝撃的なものでした。

日本航空 客室乗務職 大槻妙子さん
「同期とこれから先どうなるんだろうと不安な気持ちを話していた」

ある日、事故で亡くなった先輩客室乗務員、対馬祐三子さん(29)が機内で書き残したメモがみつかりました。

「おちついてください。ベルトを外し身の回りを用意してください。指示に従ってください」

緊急時にもかかわらず、端正な字で乗客への指示の言葉が記されています。

日本航空 客室乗務職 大槻妙子さん
「業務をまっとうする姿勢というのでしょうか、そういうところにすごく胸をうたれた」

亡くなった先輩の思いを受け継ぎ、乗客の安全を守る客室乗務員の仕事を続けてきました。

日本航空 客室乗務職 大槻妙子さん
「(事故を受けて)客室乗務員を諦めようとか、やめようというふうに周囲のものでもいなかった」

大槻さんのように事故のあった1985年に入社した大卒社員は近く定年退職を迎えます。日本航空によりますと、事故当時、在籍していた社員は来年3月には50人にまで減り、全社員の0.4%を切るということです。

整備士の鈴木秀勝さん(59)は事故当時、入社5年目。来年2月に定年退職を迎えます。あの日、羽田空港に配属されていた鈴木さんは、事故の後、遺体の安置場所の体育館にドライアイスを運んだといいます。

日本航空 整備士 鈴木秀勝さん
「ご遺族の方が一部おられて、その瞬間を見た時に涙が出てしまって。目の前が涙で見えない状況ではありました」

この経験が整備の仕事をする上での原点となりました。

日本航空 整備士 鈴木秀勝さん
「実際にご遺体を見て、整備作業というものをしっかりと今まで以上に行って、航空機の安全を確実なものにしていかなければいけない」

当時を知る社員がほぼいなくなる中、事故の教訓を次の世代にどう伝えていくのか。

当時、羽田空港の受付カウンターで業務をしていた伊藤由美子さん。

日本航空 安全推進本部 伊藤由美子さん
「思い出されるのは、締め切りギリギリにお越しになって、最終便のご予約お持ちだったお客様。嬉しそうに早い便乗れて助かるっておっしゃって」

定年退職後も事故機の残骸や遺品などが保管されている「安全啓発センター」に残り、ガイドをしています。

日本航空 安全推進本部 伊藤由美子さん
「知識としてではなく、自分ごととして考えられる社員、後輩になってほしいという思いで後輩たちには話をしてきました」

空の安全をどう守っていくのか?時が流れても問われ続けています。

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/122868