2011年3月11日に起きた東日本大震災。

この未曾有の大災害の後の日本の状況は、非常に印象的なものでした。原子力発電所の危険性/安全性をめぐって激しい議論が巻き起こり、ときにはそうした議論がSNS上で誹謗中傷合戦に発展することもあり、「人々の政治的な衝突」を目にする頻度が増したようにも思えます。

明確な影響関係があるかどうかはわかりませんが、2012年には民主党から自民党への政権交代が起き、大震災と政権交代とセットにして記憶されている方もいらっしゃるかもしれません。

どうやら巨大な災害は、政治のうえでの変化をも巻き起こす場合があるようです。

火山大国・地震大国・災害大国である日本に暮らす人々にとっては、今後、災害が起きた際にどのような政治的な変化が引き起こされるのかについて考えておくのも、無駄なことではないかもしれません。

そんなことを考える際に手助けとなるのが、過去の災害の記録です。

スポットを当てたいのは、1783(天明3)年に起きた浅間山の大噴火。長野県と群馬県の県境にあるこの活火山は、歴史上、何度も噴火を繰り返してきた山として知られます。

とりわけここで取り上げる「天明の大噴火」は、巨大な被害を巻き起こした噴火として記録されていますが、じつは、政治的に大きな変化を巻き起こした——江戸幕府/徳川政権に大きな影響を与えた——災害としても位置付けられています。

当時の事情について詳しく解説しているのが、日本近世史の研究者である大石慎三郎の『天明の浅間山大噴火』です。

https://gendai-m.ismcdn.jp/mwimgs/c/3/670m/img_c3f82ca63b72a1e01900338f39324c8d48751.jpg

同書をもとに経緯を見ていきましょう。

「昼間だというのに灰のために真っ暗」
ポイントは「降灰」(火山灰が降り積もること)です。天明の浅間山大噴火が始まった1783年の旧暦4月以降は、噴火にともなう降灰の被害が大きくなりました。同書はこのように書いています。

〈たとえば中山道深谷の宿で最後の大爆発の一日前の七日(編集部注:1783年旧暦の8月7日)の一時すぎに、すでにまだ昼間だというのに灰のために真っ暗になり、人々は手さぐりで、お互いに声をかけあって歩くほどであった〉(72頁)

こうした降灰は、当然のことながら作物への影響を与えます。

〈これら降灰は、ちょうど成長期にあった農作物の葉面を覆ってその育成を妨げたのはもちろんである。のみならずそれらは、数年間にわたって成層圏に滞留して日光の照射を妨げた。

「癸卯(みずのとう・天明三年)以後三ヶ年、凶歳飢饉にして奥州一ヶ国の餓死人数凡(およそ)二百万人余」(『経世秘策』)といわれる天明の大飢饉は、冷害によるものであるが、その原因を百パーセント浅間山の火山灰のせいにするのは、もちろんできないが、その間に強い因果関係があったことは、気象学者をはじめ関連学者のひとしく認めるところである〉(75~76頁)