3/19(日) 11:09   alterna
https://news.yahoo.co.jp/articles/8015764c7f72dc7c1468d461dfea9272bb522ec1

BBCのドキュメンタリー番組「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」が3月18日から19日にかけて、日本国内向けに放送されている。同番組は、ジャニー喜多川氏による性加害疑惑と、それを黙殺する日本社会の現実を突きつける。元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二氏に、同番組について寄稿してもらった。



英BBCに「プレデター(捕食者)」と名指しされたジャニー喜多川による性加害ドキュメンタリーの最大の衝撃は、その内容のほとんどを日本の私たちの大半がすでに知っていたという点だ。多くは「噂」の形ながら「常識だよ」という、ほぼ断言形の訳知り顔とともに。

古くは北公次の暴露本や田原俊彦の寮浴室裸体写真の写真誌掲載、99年の週刊文春キャンペーン等々、「噂」はここ数十年にわたって一定周期で蒸し返されてきたが、いずれも単一(に近い)媒体の散発的な告発の域を出なかった。

つまり「常識だよ」という物言いは、知っていてそれを許してきた、あるいは許さざるを得なかった日本社会のなんらかの事情が在るということになる。

疑惑が事実だとしたら、なぜそれはカトリック教会の少年たちへの性的虐待、あるいはハリウッドの大物プロデューサー、ワインスティンの性的搾取からの#MeToo運動のようには糾弾されないのか。

誰もが指摘するのがジャニーズ事務所のメディア戦略だ。今や歌番組ばかりかバラエティからお笑い、旅番組や料理番組、報道番組までをも席巻するジャニーズ・タレントたちの総引き揚げをちらつかせれば、テレビ局ばかりか出版社や新聞社までもが批判・非難を控えることになる。

それは番組や記事の担当者の人事までをも左右し、メディア支配・官僚支配を目論むどこぞの政治権力も羨むほどだ。

■男性間のグルーミングを拒絶できない「空気」
第二は男性間のグルーミング(※)に関して、日本では二つの方向からそれを拒絶できない「空気」があるという点だ。

※グルーミングとは、「毛づくろい」という意味の英語だが、性犯罪の文脈では、性的な目的で、未成年者を手なずける行為を意味する

一つは「男性たる者(強者)」は性的(=私的)な被害を公には訴えないという日本的伝統社会の男性主義的態度に加え、近代主義的な同性愛嫌悪(=恥辱、汚辱の意識)によって表立ってはなおさらに指弾できないという二重の禁句の存在だ。

もう一つは、その前者の「日本的伝統社会の男性主義」に関わることとして、記録としては平安時代から続く日本の男性社会の、形を変えた「衆道(若衆道)」「稚児」関係の受忍だ。

衆道とは、身分や立場の差、あるいは年齢差から来るそれらの差を制度とした、特定集団への加入儀礼であり、年少者側もそれを出世の手段として利用もした。

加入儀礼とは、秘めた個人間の行為に還元すればするほどその集団の紐帯を強めるものであり、一種の共犯関係として外部との遮断を強要する。

敷衍(ふえん)すればそれは、秘匿儀礼(性的行為)の如何はどんどん薄まって、現代の先輩後輩のホモソーシャル的関係性にさえ脈々と息づく。

同時にそれはまた、「男性たる者(強者)」が女性とは違い、「キズモノ」になるわけではないという神話にも支えられている。「減るものじゃなし」という物言いが象徴するように、そこでは「加害」と「被害」の「害」そのものが否定されるのだ。

かくしてジャニー喜多川の性加害疑惑は、日本独特の「そういうことはあってもしょうがない」と、#MeTooの女性たちとは事情の異なる「告訴は恥だ」意識に絡め取られて暗黙の見逃しの対象となった。

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