学を去るのが適当」と語り、その後各地の大学で同様の演説を行いました。後に本格化する「レッドパージ」の先駆けです。

 同年には、反共謀略事件である下山、三鷹、松川事件が起きます。三つの事件とも、あたかも日本共産党が犯行にかかわったかのように宣伝されました。

 蜷川氏の発言から2カ月後の6月、朝鮮戦争が勃発し、自衛隊の前身の警察予備隊の創設へと進みました。

蜷川氏の体験
 戦前、蜷川氏は、京都帝国大学(現・京都大学)で教壇に立っていました。蜷川氏が経済学部助教授になった28年には日本共産党員を一斉検挙した三・一五事件が起きています。事件直後に大学を追われた河上肇氏は、同大経済学部の所属。蜷川氏が河上氏を慕い京都大学への進学を決めたといわれています。同年には、25年につくられた治安維持法が大改悪され、侵略戦争に反対するなど「国体変革」を企てたものは死刑とされました。

 京都大学で33年に滝川事件が起こりました。自由主義的な滝川幸辰(ゆきとき)教授の刑法学説を、マルクス主義的だとして退職させられました。法学部の7人の教授が抗議して辞職しました。

 元海軍大将の井上成美(しげよし)氏は後年、「今でも悔やまれるのは、共産党を治安維持法で押さえつけたことだ。今のように自由にしておくべきではなかったか。そうすれば戦争は起きなかったのではあるまいか…」(『井上成美』)と述べています。戦前、文字通り命を懸けて侵略戦争に反対してきた日本共産党への弾圧が戦争拡大につながったことへの反省です。

ドイツでも…