韓国のエリートはそれほど立派な遺産を受け継ぐことができなかった。朝鮮王朝末に韓国を訪問した外国人は当時の両班(ヤンバン)支配階層を痛烈に批判した。1894年から韓国を数回訪問して『朝鮮紀行』(1898)という非常に興味深い旅行記を残した英国人のビショップ夫人(イザベラ・バード)は当時の朝鮮の両班支配層をヒルのような存在だと描写した。生産的な活動は全くせず、良民と奴婢階級の勤労による生産物を徹底的に搾取して暮らす存在ということだ。官吏らは国民が少しでも倉庫に蓄えれば官衙に呼び、「自分の罪は自分が知っているはず」と言って財物を奪っていくため、当時の民は貯蓄をするインセンティブはなく、したがって資本蓄積と経済発展がなかったと観察している。世界のどの国に行っても自身が乗った馬の手綱さえも自分で握らず他人にさせる存在は韓国の両班しかいないということだ。両班は軍役もせず、税金も出さなかった。茶山・丁若鏞の『牧民心書』も「民は土を畑にし、官吏は民を畑にした」と表現した。これは戦争になれば真っ先に戦線に駆けつけて命がけで良民を守る西洋の貴族や騎士階級の行動様式とは違った。我々は過去に国が危機を迎えた時、義兵を起こして戦ったのは主に一般の国民であり、賎民待遇を受けた僧侶だった。

そのような朝鮮が滅びて日帝35年を経験しても、韓国の支配階層は大きく変わらなかったようだ。故鄭周永(チョン・ジュヨン)会長の回顧録『この地に生まれて』(2002)によると、北朝鮮の南侵で避難中だった鄭会長はそれでも国のために軍人の士気高揚に役立とうと自ら要望して一線の部隊に新聞を配達し、小さな船で船酔いしながら海岸線都市と島々を訪れ、民心の動揺を防ぐための活動をしたという。ところが7月のある日、避難先の釜山(プサン)で戦況が気になり、政治家に会えば新しい便りでも聞くことができると考えて民主党の事務室に行ったところ、「戦場では一日にも多くの若い命が失われているが、政治をする人たちは上着を脱いでビールを飲みながら戦争は他人事のようにのんきに碁を打っているのを見て、幻滅を感じた」という。当時の噂では、力がある人たちは釜山(プサン)が占領されそうになれば子どもと日本に逃げる船を準備していたという。

しかし韓国のエリートがいつも失敗していたわけではない。最も大きな役割をした期間はおそらく1960年代から1980年代までの一世代だろう。産業化、民主化を成し遂げたこの時代の飛躍が、今日世界10位規模に成長した韓国の土台になった。もちろんこれは韓国国民全員が参加して成し遂げた結果だ。しかしどの社会でも、その社会の方向を定め、改革を断行して牽引していくのは10%内のエリートの役割だ。

今の韓国のエリートはどうか。過去30年間に韓国社会が歩んできた道を見ると、エリートが役割を十分に果たしてきたとは見なしがたい。今の我々の社会の運用体系はすでにかなり古くなった。あちこちから破裂音が聞こえ、歪んだ結果をもたらしている。脱製造業が始まって30年近く経過し、高齢化とデジタル革命が進行するが、労使関係、賃金体系、人事制度・慣行、教育システムは製造業高成長時代と特に変わらず、生産施設の海外移転、労働市場の二重構造深化、早期名誉退職制度の日常化、雇用需給不均衡などにつながっている。我々の政治、官僚、企業、教育エリートはこれを傍観してきたし、立て直す能力と勇気を持てなかった。