尹大統領に面会した広島在住の在日韓国人被爆者
広島と長崎で被爆した韓国朝鮮人は、一説には7万人、死者は4万人とされますが、戦後も多くの被爆者が過酷な生活を強いられました。サミットで来日した尹大統領と対面した、在日韓国人被爆者の思いを取材しました。

朴南珠さんは、90歳の在日韓国人被爆者です。「G7広島サミット」初日の夕刻に、韓国の尹大統領との面会の場が広島市内のホテルに設けられました。韓国人被爆者たち広島在住の在日韓国人被爆者と同席します。

■朴南珠さん

「感無量で、ことばも出ません」

現職の韓国大統領が広島を訪れるのは初めてです。面会時間はおよそ30分。尹大統領は、「皆さんが大変だった時にそばにいることができなかった。おわびします」と、戦後の対応を謝罪。更に、「発展した韓国を見て欲しいので、みなさんを招待する」と語りかけたと言います。

■朴南珠さん

「すごく緊張しました。被爆者のみなさんご苦労様でした、という慰労のことばがたくさんありました」

「ことばのはしはしが友好的。反日感情は全くなかったです。私たちも気が楽でした」

帰宅した時は、既に午後10時を過ぎていました。

12歳 爆心地から1.9キロの路面電車の中で被爆


修学旅行で広島を訪れた子供達に、被爆の体験を語り続ける朴さん。爆心地から1.9キロの辺りを走っていた路面電車の中で被爆しました。12歳でした。

■朴南珠さん

「ピカッ、光と同時にゴォ~ッと炎の塊が電車を覆い尽くしました」

「早う電車から飛び降りろ、飛び降りろと声が聞こえたので無我夢中で電車から飛び降りました」

「そうすると、焼けただれた形で電車が止まっている。そうして辺りを見ると街並みがない街がなくなった。家が見当たらない」

劫火を逃れ、たどり着いた郊外の太田川堤防から見た光景は、忘れられません。

■朴南珠さん

「広島がなくなっている。広島がない。本当にその時の恐怖は言葉で表せない。50年間、思い出すのも怖かったです。広島がなくなっているんです」

差別と貧困の中、戦後を生き延びる

両親は朝鮮半島出身。パクさんは広島で生まれました。

■朴南珠さん

「祖国は日本の植民地化にあって、貧しいから日本へ出稼ぎに来ているんですね。だから着のみ着のままって感じ。なんにも持ってこなかった」

「いじめられたこともあります。『♪朝鮮 朝鮮 どこちがう 船のような靴 ちょっとちがう♪』ってからかうんです。ほんとに(靴の)先がとがっていて、ゴム靴が。いやでいやでたまらなかった。日本人になりたかった。子ども心にそう思っていました。」

終戦後、多くの朝鮮半島出身の人たちは仕事を失い、住居や食べ物にも事欠く生活を強いられました。

「戦後5年間ぐらいはバラックで密集して住んでいました。隣の声が聞こえるほどでした。」

「本当に不潔というか、不衛生な中でした。振り返ってみるとよく生きられたな、あんな不衛生・不潔ななかでよく生きてこれたなと思います」