0001請安息吧 ★
2023/08/19(土) 20:52:46.16ID:g+YZyrQM理想の上司、誠実な夫。
しかし、今から78年前の8月18日、終戦3日後のこと。
妻と生後間もないわが子とともに、命を絶ちました。
「我れにその力すでになし」
遺書には、悲劇の理由が記されていました。
(長野局記者 長山尚史)
ある一家の死
“理想の上司” 遊佐准尉は殴らない
ある一家の死
山の斜面を少し登ったところに、その名前は刻まれていました。
「遊佐卯之助 准尉(ゆさ・うのすけ)」
かつて、ここ長野県上田市にあった陸軍の飛行学校で教官を務めていました。
遊佐卯之助 准尉
終戦から3日後の1945年8月18日。
遊佐准尉(30)は8歳年下の妻の秀子さん(22)と、生後27日の久子ちゃんとともに、みずから命を絶ちました。
その11年後、地元・上田市の住民たちは、一家のエピソードを知り、私財を投じてまで慰霊碑を立てました。
“理想の上司” 遊佐准尉は殴らない
遊佐准尉はいったいどんな人物だったのでしょうか。
その人柄を語ってくれる人がいました。
准尉のおいにあたる森田敏彦さん(65)。今も亡くなった3人の供養を続けています。
森田さんによると、遊佐准尉は当時の軍人らしからぬ態度だったといいます。
おいの森田敏彦さん
「陸軍は厳しかったが、当時教え子の間では『遊佐准尉は殴らない』と有名だったそうです。しかも、殴らないからといって、教え子の腕が悪くなるわけではない。Aくんにあった教え方、Bくんにあった教え方をしていた。今の時代なら、理想の会社の上司だったと思います」
死の真相を探る人物
8月上旬、森田さんを訪ねたとき、私(記者)は村山隆さん(76)と一緒でした。
村山さんは、准尉のいた上田市の在住。
仲間とともに、准尉の死の真相を探っていました。
遊佐准尉を調べている村山隆さん
「身近なところでこんな事件が起きたなんて、とてもひと事とは思えない。ただ、地域社会の中ではこの事件はまったく伝わっておらず、自分自身が勉強して広めていかないといけないと思ったのです」
多くの関係者から話を聞いたり、資料を集めたり。
地元で起きたという以外に、村山さんには、事件を調べる理由がありました。
戦時中、上田市には陸軍の飛行場があり、パイロットを養成する「熊谷陸軍飛行学校上田教育隊」が置かれていました。
上田飛行場
遊佐准尉は昭和15年に教育隊に赴任し、少年飛行兵の指導にあたっていました。
教育隊では戦局の悪化に伴って特攻隊の訓練も行われるようになり、遊佐准尉も携わりました。上田市によると、教育隊で学んだ10人余りが特攻隊員として戦地へ飛び立ったとされます。
実は村山さんの父親は、整備担当としてこの飛行場に勤務していました。そのときに、遊佐准尉とも親交があり、村山さんは縁を感じていたのです。
約束と愛
これまでに、遊佐准尉の教え子たちの証言なども調べてきた村山さん。
遊佐准尉が命を絶った背景が、少しずつ見えてきたといいます。
村山さん
「教え子たちの証言で、遊佐准尉は指導の中で『君たちの命がなくなるときは自分の命もない』と語っていたそうです。特攻隊の指導でも『自分もあとで必ず逝く、君たちだけを死なすことはしない』と話していました。結果的に生き残ったが、教え子たちとの約束に殉じたのではないでしょうか」
けれど、優しく誠実であった夫がなぜ、妻と幼子と死をともにしたのか。
村山さんは、准尉の妻・秀子さんをよく知る人物を訪ねました。
秀子さんの実の妹、野村信子さん(93)です。
信子さんは、姉一家の悲報に接した時のことを、涙ながらに振り返りました。
つづきは下記リンク先をお読みください
2023年8月18日 19時14分 NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230818/k10014165871000.html