はじめに
戦国時代において、戦に勝利した大名が、勝ち取った国から物や財産を没収することは至極当然だった。
それは、命懸けで戦っていたからである。

その被害を最も受けたのは「戦場」となった住人たちである。

今回は、戦乱の世に多くの犠牲を強いられた人々の無慈悲な出来事について解説する。

ネコやニワトリを守れ
天正5年(1577年)5月、奈良の興福寺の多聞院日記には、こんな一文が書かれている。

「ナラ中ネコ・ニワトリ、安土ヨリ取ニ来トテ、僧坊中へ、方々隠了、タカノエノ用、云々」

「織田信長が、奈良の町のネコやニワトリを鷹の餌にするために捕まえに来るから、僧に隠してもらう」という意味である。

信長の鷹好きは広く知られており、他の大名から贈られることも多く、信長が暮らす安土城には常時20~30羽の鷹がいたという。

多くの鷹を飼っていれば当然餌の問題が出てくる。
鷹は生き餌を好むために、目を付けられたのがネコとニワトリだった。

この噂を聞いた奈良の人たちは、信長ならやりかねないと驚愕した。
大事に飼っていたネコやニワトリを守るために、奈良の人たちは興福寺に向かった。
興福寺にネコやニワトリを預けて隠してもらうためである。

それではなぜ興福寺にネコやニワトリを隠したのだろうか?

当時、大きな寺社は外部からの侵入や介入を拒否できる聖域で、戦国の魔王・信長でも手を出すことはできなかったからである。

こうして奈良の町中からネコやニワトリが集まってしまい、興福寺の僧侶たちは大変な思いをしたという。

豊臣秀吉の時代にも、動物の受難は起こっている。

天正20年(1592年)2月の多聞院日記では、

「秀吉が奈良中の狛を取り寄せて、皮を剥いで槍の鞘の用にするという。なんと不憫であることか」

と嘆かれている。

「狛」とは高麗犬に代表される犬のことだが、ネコなども含まれていたようである。戦に使う槍の穂先がむき出しだと危険なので、穂先につける鞘を動物の皮で作るために、秀吉が犬やネコを集めろと命じたのだ。

材木をよこせ
天正2年(1574年)正月、近江を制圧した当時の羽柴秀吉が、琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)に出した命令がある。

「当島に備前(浅井備前守長政)預け置き候、材木の儀、きっと改め、あい渡すべく候、如在においては、曲事たるべく候」

竹生島には、浅井長政が預けていた大量の材木があった。

その情報を知った秀吉は、「竹生島の材木を調べるから引き渡せ、ごまかせば処罰する」と命じたのだ。

その材木は自分の居城・長浜城の築城に使ったという。

禁制
戦国乱世に実は最も被害を受けたのは「戦場」となった場所の住人たちだった。村や町に「戦が起きる」と知らせが入れば、彼らは慌てて準備に入った。