今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は朝鮮出兵(唐入り)を決意した、秀吉の心情の裏側を分析する。

天正18年(1590年)7月から9月にかけて、徳川家康は奥州(現在の東北地域)で勃発した反乱鎮圧に、豊臣重臣として奔走していた。

一方で、その頃、豊臣秀吉は、さらなる野望を膨らませていた。8月には、諸大名に唐入り(朝鮮出兵)を翌年に行うことを告げたのだ。

10月になると、関東にも、秀吉の唐入りが確実に行われるであろうことが伝わってくる。この年の12月下旬、秀吉は甥の秀次に関白職と聚楽第を譲り、自身は大坂城に入った。これも、朝鮮半島から明国(現在の中国)への侵攻を見据えてのことと思われる。

秀吉にはどんな戦略があったのか
秀吉が唐入りを実行しようとしたのは、誇大妄想で、無茶な行動だと捉えられる側面もあるが、秀吉には秀吉なりの目的があった。

その目的は1つではなく、さまざまあると考えられている。秀吉の戦略を考えるためには、当時の国際情勢にも触れなければならない。

戦国3英傑(信長・秀吉・家康)が活躍していたころ、世界は「大航海時代」の真っ只中だった。15世紀頃より、主にポルトガルとスペインが世界規模の航海を行い、新航路や新大陸を「発見」していったのだ。

16世紀後半になると、イギリスやオランダ、フランスもそれに加わり、アジア・アフリカ・南北アメリカの領土獲得や植民地交易を推し進めた。大航海時代と聞けば、ロマン溢れる冒険といったイメージがあるかもしれないが、その実態は、非ヨーロッパ住民への強奪や虐殺という血塗られたものでもあったのだ。

スペインとポルトガルは、1494年にトルデシリャス条約を結び、西アフリカ・セネガル沖の島の西の子午線を基準に、その東側の新領土はポルトガル領、西側はスペイン領とすることを決めてしまった(1529年には、スペインとポルトガルのアジアにおける勢力圏をわけるためのサラゴサ条約が締結)。

日本にも宣教師たちがやってくる
そんななか、1543年にポルトガル人が乗った船が種子島(鹿児島県)に漂着、火縄式鉄砲を伝えた(船の持ち主は、明の人・王直)。1549年には、イエズス会士のフランシスコ・ザビエル(イエズス会:キリスト教の教派の1つ、カトリック教会の組織)が鹿児島に上陸、九州各地や山口を巡り、布教に努める。


日本に宣教師たちが続々とやってくる。写真はフランシスコ・ザビエル像(写真: すなすな3rd / PIXTA)
スペイン人は1584年に来日し、フランシスコ会(イエズス会と同じく、カトリック教会内の組織の1つ)の宣教師が布教活動を展開した。

では彼らは何のために、キリスト教国であるポルトガルやスペインから日本にやってきたのか。

もちろん、布教や交易といったこともあったが、その真の目的だと考えられるものは、来日した宣教師ヴァリニャーノがマカオからフィリピン総督に宛てた手紙(1582年)の中で明らかとなっている。

ヴァリニャーノは「日本の国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服は困難だ」と書いているのだ。つまり、彼らの隠された目的は「日本征服」にあったと考えられる。

それだけではなく、最終的には明国をも軍事攻撃により征服したいと思っていたようだ。また、貿易品(鉄や生糸など)を確保するためには、これらを数多く生産する明国を征服しなければならないとも考えていたようだ。

ヴァリニャーノは、多くの人が明国征服について語り、さまざまな計画を立てていることを耳にしたと手紙に書いているので、キリスト教国の明国攻撃は現実味を帯びていた。