住む地域や賊軍という言葉を使い百年近くの間酷い差別をされていたのが会津という土地であったのだと思う。
だが例えば奴隷を総括するには牧場主のような存在が必要でありそれを国から担わされたのが一部の薩長と結託した藩士だったのだと思っている

自分は自由民権運動で身を挺して農民の側に立ち投獄されても義理を貫いた宇田成一という藩士や三島に虐められながらも郡山の開拓を泣く泣くした藩士、そして斗南や北海道で地道に開拓に殉じたかわいそうな藩士もいたと知っているから会津藩士という大きな括りでは恨んではいない、酷い貧乏の中自分たちに転べばいい生活ができるぞと甘言を囁かれれば靡く者も出てくるのは当然の話だ
汚職に手を染めた藩士たちも賊軍という汚名を濯ぐために様々な汚れ仕事をしなければいけなかったという側面もあるし完全に吐き捨てるだけの悪とも言えない
だがそれはそれとして元会津藩士がしてきた事は出身者として糾弾しなければいけないと思っている、庶民出の自分からしたら尚更だ

今の会津の人たちは殆どこの悲惨な歴史を知らない。
戦後戦犯になるのを恐れた軍の上官が箝口令を敷いていたし、表立って市政などで語られないのは数々の悲惨な歴史の中に寝返った会津藩士や皇族が含まれているからだと睨んでいる 。上で書いたように当時開拓を冷遇されていた若松市が連隊を積極的に誘致したという歴史も隠したいのだろう。