大岡越前といえば、江戸南町奉行所の奉行として有名です。同様に、遠山金四郎は江戸北町奉行所の奉行として知られた人物です。ともに名奉行として知られていますが、この2人には意外な共通点があります。それは、どちらも痔で悩んでいたということです。

大岡越前と名裁き
大岡越前は、テレビの時代劇でも有名ですが、いわゆる「大岡裁き」として伝わっているエピソードには、創作が数多く混じっています。有名な大岡裁きの1つに、「子争い」というのがあります。子争いとは、1人の子供をめぐって、2人の母親が自分こそ本当の母親だと言い張り、大岡越前に決着を求めたものです。

「2人でその子の腕を両方から引っ張って、勝ったほうを母親と認める」大岡はこのように言い渡します。それを聞いた2人の女は、両側から子供の腕を引っ張り合いました。当然ながら、引っ張られた子供は、「痛い」と言って泣き叫びます。すると、その声を聞いて、片方の女が手を離しました。手を離せば、その時点で負けが決まります。

勝った女が子供を連れて帰ろうとすると、大岡はこれを制して、「本当の親なら、子供が痛いと泣き叫んだら手を放すものだ」と言って、引っ張り合いに負けた女を母親と認めました。このエピソードには、大岡裁きの前に疑問点があります。

そもそも、なぜ2人の女が母親と名乗りを上げたのか。どっちが本当の母親なのか、初めからわかっているはずですから、もともと奉行に沙汰してもらうまでもないのです。実は、これに似た逸話は世界各地にあり、旧約聖書にも同じ話が出てきます。つまり、この有名な「大岡裁き」も、世界の逸話をヒントにして、後世に作られた創作なのです。では、本当の大岡越前とは、どのような人物だったのでしょうか。

大岡越前の実像
大岡越前は、今でいうエリート官僚の道を歩んだ人でした。8代将軍徳川吉宗が行った、享保の改革を陰で支え、江戸町奉行、寺社奉行の要職を歴任する一方で、文化人としても知られています。大岡は、当時江戸で頻発していた、火災を防ぐために町火消しを編成し、小石川療養所を開設して病人を入院させ、薬を与えて治療しました。また、評定所の門前に目安箱を設置して、庶民の不満や怒りを、投稿させる仕組みを作ったのも大岡です。

このほかにも、物価を安定させたり経済流通のために通貨を安定させ、ゴミ収集を組織化し、賭場を一掃するなど、江戸を庶民が安心して住める町にしました。このように、大岡が庶民や弱者に寄り添う名奉行だったことから、前述の「子争い」のような、エピソードが作られたのかもしれません。