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撃墜王リヒトフォーフェンは何がスゴかったのか [きつねうどん★]
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2022/02/09(水) 19:03:02.19ID:CAP_USER
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マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(右)とはどんな戦闘機乗りだったのか

「赤い男爵」ことマンフレート・フォン・リヒトホーフェン。ドイツの撃墜王の異名通り貴族出身の彼は、弟も著名な戦闘機乗りとして知られる。また、遠縁にあたるリヒトホーフェン姉妹の姉はマックスとアルフレートのヴェーバー兄弟と深い関係を持ち、妹は作家D・H・ロレンスと世界を遍歴した。マンフレートを中心としつつ、この4人を通し、20世紀という戦争と思想の時代を描いた『リヒトホーフェン――撃墜王とその一族』から一部を抜粋、再構成してお届けします。

機体を赤く塗る
「たいした理由があったのではないが、ある晴れた日に、わが愛機を派手な赤に塗ろうと思いついた。わたしの赤い飛行機が無条件にだれの印象にも残るようになったので、これは大成功だった。じっさいに、わが愛機は敵側の眼にも留まらずにはいなかったようだ」

ドイツの撃墜王マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(1892〜1918)の自伝は、赤い機体の由来をこのように記す。最初に赤く塗られた日は、1916年12月28日あるいは1917年1月20日とされている。これ以後、彼の飛行隊はすべての機体が赤く塗装されるようになる。

ここで問題となるのは機種だが、おそらくはこの時期のオズヴァルト・ベルケ(1891〜1916)戦闘機中隊の主力である単座複葉機アルバトロスD.UかD.Vだと思われる。というのも、マンフレートが搭乗した機体でもっとも有名な三葉戦闘機フォッカーDr.Tはいまだ開発されておらず、この機種が西部戦線に配備されるのは1917年8月だからである。

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出撃前のアルバトロスD. V編隊

「レッド・バロン」(Red Baron)という彼の通称はイギリス軍側ではすぐに定着したようだが、ドイツで「ローター・バローン」(Roter Baron)という呼び方がなされるようになったのは、1945年のことである。第一次世界大戦中は「ローター・カンプフフリーガー」(Roter Kampfflieger)、すなわち「赤い飛行機乗り」という通称のほうが一般的であった。それゆえ、1917年に書かれた自伝のタイトルとなっている。

フランス語では「赤い悪魔」という意味の「ルージュ・ディアブル」(rouge diable)、「赤い小型機」という意味の「ル・プチ・ルージュ」(le petit rouge)などと呼ばれており、英仏連合軍内でのこの通称を、マンフレートは撃墜したパイロットから直接、聞かされた。

マンフレートの1917年最初の撃墜は1月4日、通算16機目である。この戦闘での敵機種は新型のソッピース・パップ、配備されたばかりの単座複葉機で、アルバトロスD.U、D.Vシリーズよりも性能で優っていた。アルバトロス3機による数の優位を駆使して、マンフレートは辛くもこの新型機に勝利した。これまでの16機撃墜によって、敵乗員8名が捕虜に、16名が戦死している。

プール・ル・メリット勲章と第11戦闘機中隊
この時点でマンフレートの16機撃墜はドイツ軍の最大撃墜数となったため、同年1月16日にプール・ル・メリット勲章を叙勲された。ベルケとインメルマンが授与されたときは8機撃墜の功績だったので、それを大幅に上回っている。

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第11戦闘飛行隊のメンバー。搭乗しているのがマンフレート、最前列はローター

プール・ル・メリット勲章はフリードリヒ2世が制定したプロイセン王国の最高勲章だが、フランス語なのは、制定者であるプロイセン王のフランス語偏愛に由来している。若いときからドイツ語の書物を1冊も読んだことがなく、一度も正式にドイツ語を習ったことがないと語り、著作もフランス語でおこなうドイツ人の王だった(もっとも、同時代のドイツの君主や貴族たちは皆フランス語をたしなんでいたが)。皇帝ヴィルヘルム2世はプロイセン王でもあり、第一次世界大戦中に687個の勲章を授与しているが、そのなかでパイロットは比較的少なく、132人しかいない。

ドイツ国内は、プール・ル・メリット勲章を叙勲された若き英雄の誕生をことほいだ。新聞の大見出しには「リヒトホーフェン」の名が躍り、若い女性たちはマンフレート宛てにラブレターを送りつけた。しかも同時期、同盟国オーストリア=ハンガリー帝国やトルコからも高位の勲章を授けられたために、ドイツ全土で「リヒトホーフェン」に対する熱狂はとどまるところを知らなかった。
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2022/02/09(水) 19:03:27.23ID:CAP_USER
マンフレートは一連の叙勲に続いて、1917年1月15日に第11戦闘機中隊隊長への昇格が決定し、この航空隊が駐屯しているフランス北部の都市ドゥエーに赴任した。

とはいえ、彼にとって、この転属はけっして好ましいものではなかった。第11戦闘機中隊は1916年9月下旬に創設されたが、それ以降、1機の撃墜スコアもなかったからである。しかも、マンフレートは忘れがたい思い出にあふれたベルケ戦闘機中隊を離れたくなかった。

「わが愛するベルケ戦闘機中隊を去ることはただただ気乗りしません。わたしの抵抗はすべて虚しく終わりました。〔……〕ここ〔第11戦闘機中隊〕での営みでさしあたり、わたしを満足させるものはごくわずかです」と、書簡で母クニグンデにこぼしている。

だが、隊長となったマンフレートは、かつてベルケのように新天地の戦闘機中隊のパイロットたちを鍛えあげて、みずからが率いるエリート航空部隊へと変貌させる。この部隊はのちにリヒトホーフェン戦闘機中隊と改称され、またイギリス軍からは「リヒトホーフェンの空飛ぶサーカス」と呼ばれ、第一次世界大戦中の伝説となっていく。この部隊は6人のプール・ル・メリット勲章授与者を輩出し、この部隊のみの総撃墜数は敗戦までに535機を記録するのだ。

弟ローターの配属とマンフレートの躍進
第11戦闘機中隊隊長に異動したマンフレートの17番目の撃墜は、異動8日後の1月23日、18機目はその翌日である。乗機は、流線形の新型機体の単座戦闘機アルバトロスD.Vで、プロペラ同調装置による機関銃2門をそなえ、同時期のほかのどの戦闘機よりも速度と上昇性能が優れていた。連合軍側に対して性能的優位を回復した機体である。

2月1日の19機目の撃墜後にシュヴァイトニッツの実家へ休暇で戻っているが、2週間後の14日には前線に復帰し、20機目を撃墜している。翌月の3月4日では23機目、6日に24機目、その11日後の17日には27機目を記録しており、この時期の撃墜ペースには眼を見張るものがある。

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シュヴァイトニッツの自宅にあったマンフレートの部屋

そして1917年3月10日には、当時はドゥエーの西方3キロメートルに位置するラ・ブライエルを拠点としていた第11戦闘機中隊に、弟ローター・フォン・リヒトホーフェン(1894〜1922)が配属されてきた。

マンフレート本人にもさらなる変化があった。3月22日に特例により中尉に昇進したのである。平時であれば、中尉昇進は軍歴12年に相当するために、異例さがきわだつ。

マンフレートとローターが初めて一緒に出撃した3月24日には、兄は30機目の、弟は初撃墜に成功する。そのうえ、この初撃墜からわずか6週間で、ローターは20機目の撃墜という快挙を達成する。兄マンフレートに劣らず、弟も優秀なパイロットであることを戦果で証明したのだが、悲しいかな、兄の華々しい記録の陰に隠れてしまう。とはいえ、兄自身はこの弟の撃墜記録を自伝で非常に高く評価している。

自伝に「暑い一日」として、早朝から連続集中砲火が激しかったと記された4月2日は、早朝から襲来した敵編隊を迎撃し、32機目を撃墜後、朝食と入浴後に索敵飛行で再度出撃し、33機目をマークしている。

第11戦闘機中隊を看過できなくなったイギリス軍は、4月5日にその拠点飛行場に大々的な夜間爆撃を敢行した。4つの格納庫が完全に破壊され、多くの戦闘機が破壊もしくは大破、滑走路は弾孔によってほぼ使用不能となった。

翌6日の夜には、再び出現したイギリス編隊に対抗して、対空防衛を充分に準備した報復戦が飛行場からおこなわれた。少なくとも3機がその近隣に墜落し、乗員全員が捕虜となっている。「ともあれ、われわれはその攻撃の成功に非常に満足した。このため、英軍は意気消沈して、われらの飛行場を攻撃するためにもはや兵力を出すことはなくなったからだ」と、上機嫌で記している。
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2022/02/09(水) 19:03:32.27ID:CAP_USER
マンフレートに追随するように、第11戦闘機中隊パイロットたちも戦果を充実させてきた。たとえば4月13日の出撃では、クルト・ヴォルフ少尉(1895〜1917)4機、弟ローター2機、カール・エーミール・シェーファー少尉(1891〜1917)2機、ゼバスティアン・フェストナー準曹長(1894〜1917)2機、マンフレート2機の合計12機を1日で撃墜している。

英軍の夜間爆撃は、マンフレートの闘争心に火をつけたようだ。その翌日6日は出撃できなかったが、7日から29日までの期間に、マンフレートの撃墜記録は37機目から52機目まで一気に増大したからである。4月29日に4機撃墜で、50機という大台を突破したために、皇帝ヴィルヘルム2世から祝電をもらっている。リヒトホーフェンの第11戦闘機中隊のもっとも得意な日々だっただろう。

撃墜王マンフレートの戦術
マンフレートが驚異の撃墜数をレコードしていた1917年3月中旬の戦闘に関する自伝の記述から、彼のパイロットとしての成長と空戦のタクティクスを看取できる。

「まずは敵機をはるか遠方から認めて、飛行隊がそれを敵と認識し、敵の機数を数えてから、この局面の不利と有利を慎重に検討する。それゆえ、たとえば戦闘中に風によって自機が自軍の前線から大きく外れたり、前線へと押し戻されるかどうかは、きわめて重要である」

偉大なベルケとの初対面で撃墜のテクニックについて尋ねた際のマンフレートからは想像もできないほどの成長がうかがえる。このうえなく冷静に状況を判断して、勝利の条件とタイミングを瞬時に推量しており、空戦の心がまえについても、同じく論理的である。

「攻撃精神、すなわち攻勢に出ることこそが肝心であるのは、なにごとも同じで、空戦においてもそうだ。もちろん、敵機も同様に考えている。それを即座に察知しなければならない。敵機がわれわれを認識するとすぐに反転、攻撃してくる。この瞬間、わが僚機5機に〈警戒せよ!〉と命令するのだ。〔……〕われわれも同様に編隊を組んで、敵編隊に少しずつ接近していく。わたしが注意を傾けるのは、敵機で敵編隊から離れるものがいないかどうかだ。いた場合、そいつはまたとないカモである」

撃墜が容易と判断できるターゲットを瞬時に判断する精神的優位と余裕が感じられるのであって、いよいよ発砲するといった瞬間についても、冷徹さの維持を戒めとしている。

「わが意気のなかに敵機を呑んでいるのがわかる。いましがたの興奮はとうになくなった。完全に冷静かつ虚心に思考して、相手と自身に関する命中確率を充分に検討した。概して、戦闘とはたいていの場合、興奮を最低限に抑制するべきである。興奮にはやる者は失敗をおかし、撃墜することはないだろう。それはおそらく習慣的なものなのだ。いずれにしても、今回の戦闘で過誤をおかすことはなかった」

マンフレートは真髄を体得していった
元来、幼少時から身体能力が高く、スポーツ万能だったマンフレートは、ベルケの教えを理解して、空戦経験を重ねていくうちに、その真髄を体得していったと思われる。3月31日から5月11日までの約40日間は、ドイツ軍による絶対的な制空権が維持されていた。統計的には、英軍機の損失は約150機で、マンフレートの個人記録のみで20機が撃墜されている。ドイツ機1機に対して英軍機5機という損失比で、イギリス空軍の年鑑には「血の四月(ブラッディ・エイプリル)」と記された。

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1917年春における第11戦闘機中隊の躍進めざましい理由として、カスタンの評伝では3つの要因を挙げている。乗機のアルバトロスD.Uの性能が英軍機を凌駕していたこと、つぎにマンフレート自身が勇猛なパイロットであるうえに、彼が隊員たちをうまく率いて果敢に戦ったこと、最後に戦術がきわめて効率の高かったことである。ベルケの教えどおりに、1対1の空中戦にもちこみ、機体の高機動を活用して、一撃必中のドッグファイトを重視した戦術であった。

だが、その後、ドイツをめぐる戦況は悪化していく。ドイツの無制限潜水艦作戦が1917年2月から本格化すると、アメリカはドイツに宣戦布告し、連合国側として第一次世界大戦に参戦する。

1916年から翌17年にかけての冬には、「カブラの冬」と呼ばれる飢饉状態がドイツ国内で発生していたのにくわえて、連合国による大戦当初から継続する海上封鎖はドイツ帝国の軍需資源や食糧供給を枯渇させていく。その一方で、西部戦線はアメリカによる補給と増強がなされていくのだ――。

https://toyokeizai.net/articles/-/508700
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2022/02/09(水) 19:41:11.69ID:Y0kradV5
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2022/02/09(水) 20:26:17.99ID:jvKEXsUd
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