高層ビルや大型商業施設が立ち並ぶ那覇市北部の「那覇新都心」。その南東部に位置する「おもろまち」地区は、75年前の沖縄戦で最激戦地の一つだった。米軍基地返還後、著しい発展を遂げたことで「跡地利用の成功例」として語られる一方、過酷な歴史は風化しつつある。「発展の裏で多くの犠牲があったことを忘れないでほしい」。戦争を繰り返さないために、体験者やその家族らは語り部として活動を続けている。

 市中心部の県庁前からモノレールで7分。おもろまち駅で降り、5分ほど歩いた場所に、白いタンクが立つ小高い丘がある。周囲には30階建てのツインタワーマンションや高層ホテル、大型免税店が並ぶ。丘の上からは30キロ以上離れた慶良間諸島が見える。

 「ここが激戦地だったなんて想像できないでしょう」。中村功さん(85)=沖縄県浦添市=はつぶやく。当時16歳の姉は負傷兵を世話する救護班、15歳だった兄は砲弾や食料を運搬する義勇隊として参加した。

 標高や見た目から旧日本軍が「五二高地」「すり鉢丘」、米軍が「シュガーローフ(砂糖の塊)」と呼んだこの丘は、首里城地下に置かれた旧日本陸軍第32軍司令部を守る要衝だった。両軍による攻防は、1945年5月12日から1週間続いた。丘の上に設置された説明板には、1日のうちに4回も頂上の攻守が入れ替わったことや、米軍だけで2662人が死傷し、1289人が精神を病んだと記されている。日本側の死傷者は記録がない。 戦車を前面に進攻する米軍。旧日本軍は砲撃や手りゅう弾で応戦する。「武器が違う。食料も足りない。太刀打ちできなかったと兄は話していた」。行動を共にしていた兵士が死に、兄は戦場を離れることができたという。

 姉は解散命令が出るまで残った。「姉によると、撤退する際、衛生兵は負傷兵に『痛み止め』と言って青酸カリを配ったそうです。連れて行かないのかと尋ねたら『おまえが背負って行くか?』と」。姉は残された負傷兵の最期は見届けていないという。中村さんは「戦えない者は切り捨てる。捕虜になる前に口封じですよ」と語る。

 姉と兄は戦後、シュガーローフの話をすることを嫌がった。特に姉は「世話をした負傷兵の顔が浮かぶ。声が聞こえる、ってガタガタ震えていた」。