「砲艦外交」にどう対処するか
1853年に、いわゆる「黒船」とペリーが来航し、武力によって開港を迫られたことで、江戸幕府は準備不足だったため押しに負けて仕方なく開国した……という見方が、今までの日本史では一般的なものでした。

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1853年7月14日ペリー提督一行初上陸の図(Wikipediaより)

しかし、実際には江戸幕府は情報収集と西欧諸国との交渉の準備を着々と進めていました。当時、日本海域には多くの外国船が出没しており、これらの国に対して開国することになる日も近いだろう、と幕府の重臣たちも考えていたのです。

鎖国によって海外諸国との関係が断絶していたと考えられている江戸時代も、実は「知られざる国際関係史」が存在するのです。

では、かのペリーが来航した際は、どのような経緯をたどって開港へと至ったのでしょうか。

まず最初に押さえておきたいのは、当時、いわゆる列強が途上国に対して使った主な外交手段は砲艦外交だったということです。これは武力・威力を盾にして相手を恫喝し脅すというやり方で、要するに強迫です。

ペリーたちもまた、この砲艦外交でもって日本に開国要求を行いました。しかし意外なほど強気な幕府の姿勢に、むしろペリーたちは翻弄されることになります。

儒家VSアメリカ軍人
ペリーは幕府に対してアメリカ大統領の国書を提出しました。これを受けて、当時の老中・阿部正弘は、次の来航に備えて交渉人の選抜を進めます。ここで選ばれたのが林大学頭(林復斎)という儒家の学者でした。

この人物は、歴史上の知名度はあまり高くありませんが、ここで素晴らしい実績を残すことになります。

1854年3月、ペリーと幕府の交渉が始まりました。この時、まず幕府は、アメリカが求めている漂着民の保護と物資補給には応じました。しかし交易は拒否します。するとペリーがこう恫喝しました。

「アメリカは人命第一だが、日本は船を無差別に攻撃して漂着民も罪人同然に扱っている。態度を改めないなら100隻の軍艦で攻撃するぞ」。

これに対して林は、日本は200年以上平和が続く人命尊重の国であること、異国船打払令は廃止し、漂流民も穏便に送還していることを説明。続けて「人命第一と言いながら、どうして無関係の交易の話をするのか。そもそも日本は外国の品物を必要としていない(意訳)」と反論しました。

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ペリーと幕府の交渉の様子。交渉はオランダ語を介して行われた(Wikipediaより)

こうした交渉を経て、アメリカは逆に交易要求を撤回させられてしまいます。そして、五港の開港要求については、前年に受け取った書簡に地名が指定されていないことから、下田と箱館の二港だけに限られることになりました。

林は恫喝に委縮することなく、ペリーの言い分の矛盾と隙をついて、日本にとってできるだけ有利になるように交渉を進めたのです。