縄文時代の交易は定説がなく、スンダランド南方系が後世の中国南部から
4000年かけてゆっくりと台湾琉球弧経由で縄文系海人族が本土に拡がったと
するのが埴原の二重構造モデル

弥生時代は既にやまとぅとの南島交易が活発だった
が、本土弥生人は南島にそれ程興味が無かった、稲作に不適なため。
この時代の交易ルートは良く分かってない

やまとぅ古代は喜界島がやまとぅとの南島交易の窓口となり
交易が活発な拠点が奄美、国頭、伊江、久米島、与那国と考古学的に判明

グスク時代初期には様相は一変し奄美から与那国まで
共通した出土品を持つ勢力が浸透し稲作を広めたと考古学的に判明

つまり平安末期〜鎌倉に九州などのやまとぅ系落武者が
奄美経由で阿児奈波、先島に拡がり現地土人と混交したとするのが定説